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第1章北海道にバスがきた

目次

バス事業事始め

日本でのバス事業の初めは、明治36年(1903)といわれる。1月、広島市で貸席業を営む瀬川某が同市横川町と安佐郡可部町の間(14.5km)を、乗合馬車のボディにアメリカ製のエンジンをつけた12人乗りの車を走らせた。タイヤが間に合わず、馬車用のものを使ったので故障続出、さらに馬車屋の執拗な妨害に手を焼き、9月には営業継続を断念せざるを得なかったという。

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大阪市でも同年3月に天王寺公園で開かれた内国勧業博覧会で、アメリカから輸入の蒸気自動車2両が梅田駅から千日前まで運行した。これは会期中だけのアトラクションであった。

同じ年の9月20日、京都市の二井商会が堀川中立売から七条停車場、および三条寺町一祇園石段下の間で、アメリカ製2人乗りの2両(計4,000円)を6人乗りに改造して1区4銭でバス営業を始めた。

これが乗合バス第1号とされ、これを記念して9月20日が「バスの日」と定められた。この車には幌がないので雨天のときは休業したという、嘘のような話が伝えられている。これにも人力車夫の反抗が激しく、「護身のため事務所には短銃を備え置けり」と創業者が記録を残している。京都ではすでに明治28年から日本最初の電車、京都電気鉄道も動いており、こちらからの反発もかなりなものであったらしい。株式を募集したものの、日露戦争間近とあって、景気への不安からか応ずる者なく、これも4カ月余であえなく企業を閉鎖せざるをえなかった。

島では翌々38年、別の事業家が20人乗りガス自動車と6人乗りの2両で営業を始めたが、夜間、無灯の車を横転させて置いて道路をふさぐなど、いぜん馬車屋の妨害が激しく、これも8カ月で廃業の運命となった。

明治37年(1904)日露戦争が始まり、その影響もあって新規事業を起こす気運は一段落した。当時の幹線交通は国有鉄道と私設鉄道で、短距離の交通を担当していたのは人力車と乗合馬車が主力だったから、新しい勢力"ガソリンで走る馬車"に対する守旧派の反発は根強いものがあった。

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北海道には大正3年

北海道にバスが初めてお目見えしたのは、それから10年ほどたった大正3(1914)年のことだった。 2月22日付の函館新聞は、日高の浦河一沙留太間に3月1日からバス路線を開設するために設立された北海自働車共同組合(当時は「自働車」と書かれた)が、ドイツ・サンフォード社製、12人乗り、時速30 マイル(約48km)のバスを8,500円で購入し、陸揚げした函館で試乗会を開いたときの様子を次のように報じているという。「一切万事手ッ取り早く拷(らち)の明くるを以て便利とする世の中に、臭いガソリン瓦斯(ガス)をひりながら砂塵を揚げて疾走したとて驚くことはなけれど、子供等は後からワイワイと追いかける、犬は吠えつく、馬車が騒ぎだし、行人は立ち止まり振り返る」

あっけにとられながら見とれる人々の顔が目に浮かぶようだ。これが予定通り運行されていれば、北海道初めてのバスということになるが、はっきりした記録は残っていない。 翌4月には函館一江差間の開業を予定してバスが入って「函館一江差が3円とは高い」ともあるが、これも営業の明確な記録はない。

記録に残るものでは、根室町で馬車運送業を営んでいた大津滝三郎がこの年の6月、東京のセールフレーザー社からフォード社製の幌型8人乗り自動車2両を1両3500円で購入し、根室一円および根室一厚岸間で一日2往復の旅客運送を始めたのが最初といわれる。根室一厚岸間は片道2時間、運賃は3円70 銭という高いものだったが、当時、根室と釧路の間には鉄道はなく、この乗合自動車は重宝がられた。しかし悪路のため雨が降るとぬかるみに車輪をとられて運行不能となり、また燃料やタイヤの消耗が激しいうえ、車体の故障も続出して採算がとれず、客も次第に減って、わずか一年半でおよそ7,500円の赤字を出して廃業の運命をたどった。

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その後、釧路の小川勇次郎がフォード8人乗り幌型中型車で市内で営業を始めており、これが道内2 番目と見られ、釧根地区は北海道バス事業創始の記録をとどめることとなった。大正3年は北海道のバス元年であったといえ、北海道バス協会はこの年を起点として記念行事を行っている。

次いで大正ひとけた代には函館の松岡陸三(旭自動車)、三石の中野佳女治、静内の山内多市、室蘭の脇口源太郎(北海自動車)、北見の大江平吉、上富良野の飛沢辰巳らが相次いで営業を始め、その後も道内各地でバス事業を始める者が続出した。鉄道の及ばない、産業活動の活発なところでの創業がめだつことは、バスの機動性に着目した起業家の多かったことを示している。

大正3年、日本は勃発した第1次世界大戦に参戦し、ヨーロッパ交戦国の海運破滅と農作物の危機に乗じて、戦争景気に沸いていた。海運業者がうけに入り、北海道では豆成り金、澱粉成り金や薄荷成り金が続出していた。

上野で開かれた東京大正博覧会に国産初の小型乗用車「DATl号」(のちのダットサン)が登場、注目を浴びた年でもあった。

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馬鉄とバスの競合時代

大正2(1913)年6月、函館の東雲町と湯川間で函館水電株式会社の電車が営業を開始した。馬車鉄道、いわゆる馬鉄を買収したものであった(昭和18年、函館市に事業譲渡)。一方、大正4年暮れには登別駅前と温泉間に馬車鉄道が営業を始めた。

大正7年は開道50年記念博覧会が札幌市で開催された年であった。これに合わせて、札幌電気軌道株式会社(昭和2年、札幌市に譲渡)が、名古屋電気鉄道から26人乗りの中古電車24両を買って、駅前と第一会場の中島公園間(停車場と公園間なので停公線)に初めて電車を走らせた。 他に南一条線(南1 西14-同東2)と南四条線(南4西3一同東3)も開通した。

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このとき、札幌駅前と中島公園の間を、東京の菊川タクシーが乗用車5両で往復運行した。これが札幌での自動車による旅客輸送の始まりとされる。

この年10月、定山渓鉄道株式会社も白石一定山渓間29.9kmに、国鉄払い下げによる小型蒸気機関車により営業を始めた。片道1時間30分、1日3往復、運賃86銭であった。当時、定山渓には温泉宿が3軒しかなかったから、客車のほか、貨車で農産物や豊羽鉱山の鉱石を輸送するためでもあったが、これが定山渓が札幌の奥座敷として観光開発される引き金になった。

乗合馬車、馬鉄、列車、電車、乗合タクシー、バスが並び立ちながら、新しい時代の活気に沸き立っていた。

当時のバス運賃は30kmで約2円50銭くらい、平均で1kmあたり約8銭だったが鉄道運賃は1km当たり 1.25銭だから約6倍。輸入自動車は約3,500円、タイヤ4本合わせて210円、ガソリンは1リットル20 銭くらいで、1リットルで4.5kmしか走れず、これに対して馬1頭はわずか50円ほど。そして運転手は特殊技能者であり、教員や巡査の2、3倍の高給取りであった。

バスが大衆公共交通機関の座を獲得するには、なお時代の進展が必要だった。全国統計で乗合馬車が減少し始めるのはようやく大正8年からである。

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函館に初の自動車専用道路

当時、バス事業の発達を妨げたもののひとつは悪路であった。新規路線の開拓のため自動車専用道路を作るという、日本初の先進的な試みに挑戦したのが、北海道の業者であったことは特筆されていいだろう。大正7年、北海道庁長官の免許を得て、函館市大森町から湯川に至る約延長4kmに専用道路でバス事業を開始したのは旭自動車株式会社であった。そのころ専用道路の法規はなかったから、木管の敷設工事として許可を受け、そこを私道としてバスを走らせたという。これに続いたものに、大正14年の生駒山登山自動車株式会社、高野山参詣自動車株式会社がある。

また、時代は下るが、昭和7年には小樽定山渓自動車道株式会社が朝里と走山渓を結ぶ28kmに自動車専用道路を開いている。翌8年には朝里一汐見台間と合わせ延長40キロでバス営業を始め、片道1円50 銭、往復2円50銭で一日5往復し、自社以外の車からは1両につき50銭の料金を徴収した。しかし、乗客が少ないため、昭和12年に小樽市街自動車株式会社に経営を委託し、その後、バスが代燃車となって運行が困難となり、15年に運休した。これが現在の道道小樽走山渓線の草分けであった。

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あとから来た自動車取締令

大正の初めから各地でバスが走りだし、各道府県がそれぞれに取締規則を制定したが、全国的に統一されたのはようやく大正8年のことだった。

内務省令第1号の「自動車取締令」には、自動車を「原動機を用い、軌条によらずして運転する車両を謂う」と定義し、その最高時速を16マイル(約25km)としている。バス事業に関しては、わずかに3カ条、路線開設の免許、譲渡相続および路線の廃止には地方長官の許可が必要と触れているだけであった。つまり、必要な書類が整い、ある程度の資金があれば営業免許を受け、事業に着手することができた。

第1次大戦参戦で一時は大戦景気に浮かれたが、戦争は大正7年に終わり、ヨーロッパの国々が復興し始めると、底の浅い日本経済はたちまち恐慌に襲われた。農産物価格は暴落し、一時4、5倍にも増えた豆の作付け面積は半分に減った。”日ゼニ”が入る結構な現金商売と見られてか、投機的な資本のバス事業への参入もあり、小規模業者の乱立を招いて群雄割拠時代を迎えることとなった。

北海道の開拓は道路、交通網の整備から始められ、その中心動脈は鉄道で、毎年全国の1割以上の建設費が重点的に投じられていた。大正5年5月には札幌で「北海道鉄道1000マイル記念祝賀会」が行われ、国有線972.3マイル、私設線30.2マイル、合計1002.5マイル(約1,600km)の完成が祝われた。(国鉄がマイル法を改めメートル法を実施したのは昭和5年4月から)

大正15年にはさらに延びて2,500kmの鉄道網が完成していた。これに対して道路は国道が600km、地方費道が2,500km、砂利道ならよいほうで、その大半が大雨や雪解けで車輪の没するぬかるみとなり、晴れれば土ほこりで視界を閉ざす悪路だった。

そのため、バス事業を始めたものの悪路で車の修理費がかさみ、複雑な車のメカニズムには不慣れで、しかも冬期は積雪のため運行不能という厳しい条件に加えて、路線競合による業者同士の対立抗争も相次いだ。このため経営は安定せず、見切りをつけて廃業する者も相次ぎ、事業の譲渡、合併といった離合集散が繰り返され、経営者の交代も頻繁だった。

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札幌・石狩地区でのバス事業

札幌で自動車による旅客運送事業が始まったのは、先に触れたように大正7年(1918)開道五十年記念博覧会が札幌市で開催された際、東京の菊川タクシーが札幌駅前と中島公園の間を乗用車5両で往復運行して人気を集めたのがきっかけで、博覧会終了後、菊川タクシーは乗用車5両を売却して引き揚げ、買い取った宝来自動車株式会社がさらに新車3両を加え、計8両で旅客運送事業を始めた。札幌駅から中島公園まで2円50銭、円山までは5円という当時の相場としては、かなり高い運賃だったため利用者が少なく、開業後3年で廃業に至った。

大正9年、札幌乗合自動車商会が月寒一札幌間で乗合営業を始めている。運賃は片道30銭で、けっこう繁盛したが、中古車のため故障が続出し、整備に費用がかかるため資金難となり、1年で廃業した。

大正12年には伏木田隆作らが札幌乗合自動車株式会社を設立し、札幌駅前を起点に山鼻・大学病院線(南16条西9丁目から南7条に出て、北1条西4丁目を経て札幌駅・大学病院前へ)と元村線(札幌駅から大通東1丁目、北8条通りを経て元村人りロヘ)2線の免許を受け、16人乗りのバス5両で営業を開始したが、やがて路面電車の山鼻線が開通したため営業不振となった。

そのころ札幌一月寒間には乗合馬車を営業していた札幌乗合馬車合資会社(代表社員本間与作)があった。出資者の一人、加藤辛吉は自動車に将来性を見て馬車から自動車に転換しようとしたが、社内に反対の空気が強く、このため同志の木上亀蔵とともに乗合馬車派と袂を分かち、幌型フォード車2両を購入して同じ路線で営業を始め、大正15年6月、札幌自動車合資会社(社長木上、専務加藤)を設立した。月寒線(豊平一月寒間)は5人乗り幌つきA型フオード1両で折り返し運転し、運賃は15銭だった。

札幌自動車合資会社は前記の札幌乗合自動車株式会社を買収して同社の路線を整理し、豊平一月寒間と札幌駅前一大学病院間に運行した。(その後、大学病院線は昭和2年に電車が開通したため客足が落ち、運行を廃止した。)

やがて札幌自動車合資会社は経営陣に中田鶴吉を加え、加藤、木上、中田のトリオで事業体制を強化し、余市一古平間、寿都一原歌間、岩内一泊間、泊一盃間、盃一神恵内間、江別一幌向一長沼間、標津一羅臼間、早来一振老一浜厚真間、さらに稚内桟橋一宗谷一尻臼間、上川一遠軽間、また八雲-セイヤウベツ間にも路線を拡張し、ほぼ全道にまたがる路線網を張りめぐらし、鉄道網を補完するバス交通網を築く。

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道南でも悪路との戦いから

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大正7年、旭自動車株式会社(松岡陸三社長)が函館市大森町から湯川に至る延長約4キロに専用道路でバス事業を開始したことに見られるように、道南のバス事業も活発であった。同8年には函館市湯川と下海岸と呼ばれる戸井町の間でも運行が始められていた。翌年、これを引き継いだ藤野自動車(藤野清次)はT型フォードとシボレーの2台で1日2往復し、約2時間半くらいかかったが、運賃は1円50 銭で、競争相手は乗合馬車だったと藤野清(清次の子息)は書いている。その手記はまた、創業時代のバス事業を次のように、いきいきと伝えている。「当時の下海岸はイワシの大漁続きで景気が好く、お客もあったが、道路が非常に悪く、大雨や長雨が続くとバスは運休したものである。一昭和4年からは湯川一川汲線を運行、1日4往復、片道2時間30分、料金は1円80銭、車は3台であった。川汲線は拓殖道路として出来上がったものの、すごい悪路で、峠のカーブは三百三十三曲がりと言われ、いたるところに危険個所があり、1年使っただけで廃車にしたこともある。やとった運転手が1日か2日で逃げ出したこともあった。私も運転手として毎日この峠を走っていたが、逃げ出した運転手の気持ちはよく分かったものである。しかし、乗合自動車は片道3人のお客があれば十分採算が採れたので順調にいったが、道路の補修はほとんど自費で行わねばならず、自動車の収入は道路の補修に使って、結局赤字営業であった。一自動車の部品は外国製品なので非常に高く、函館市弁天町にセールフレーザー商会という部品店があり、ここから買っていた」

また、北桧山地方で大正10年代に営業していた水上利四郎の「思い出」に次のようにある。「大正12年から瀬棚一国縫間をフォード2台で1往復したが、それ以前に大正10年、シボレー1台で湯川一戸井間、フォード2台で江差一本郷(現・渡島大野駅)を運行した。いずれも悪路と経費の高騰や、部品、タイヤの調達困難により1年くらいで廃業せざるをえなかった。瀬棚一国縫間も悪路で、車両は 2年もたつと修理のしようもないほどに傷み、山間部の勾配屈折が大きくかつ多く、積雪も多いため運転期間も5月から12月中ごろまでであった」

各地のバス事業者がさまざまな悪条件と戦い、さらに道路開拓、補修の任務をも担いながら営業を続けた様子が、これらからも読み取れる。

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小樽では青と赤の争い

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大正10年には小樽でも最初のバスが走った。小樽乗合自動車合資会社(斎藤菊太郎社長)が6月20日の竜宮祭りから、若松町一花園町第一大通一手宮間をT型フォード5両で運行したが、この車体が青かったので「青バス」と呼ばれた。

その4か月後の9月、小樽市街自動車株式会社(最上吉蔵社長)がT型フォード改造バス8台で奥沢口一手宮間で営業を開始した。この方は車体を茶褐色だったから「赤バス」と呼ばれた。

青バスと赤バスの路線はほとんど競合していたので対抗意識は強く、両社の経営は不安定で、乗客の奪い合いから運転手同士のけんかもしばしばだった。ささいなことから青バスの運転手20余人が赤バスの本社に押しかけて大乱闘となり、双方にケガ人を出したこともあり、小樽警察署の指導勧告もあって、翌11年7月に両者が合併して、新しく小樽市街自動車株式会社に生まれ変わったいきさつもあった。この小樽市街自動車株式会社はその後路線を余市まで延長し、のちに4代目社長・杉江仙次郎は統合により北海道中央バスの初代社長に就任した。

室蘭でも大正8年1月、室蘭区会議員の脇田源太郎らが中心になって北海自動車株式会社を設立して、室蘭一輪西間に5台の乗合バスを運行した。しかし、経営不振から1年あまりで廃業している。その後、同14年に至り、徳中祐満、射場定次郎らが室蘭自動車合資会社を設けて同区間にバス2台の運行を再開したが、当初は馬車業者の妨害か、道路に釘やガラスの破片がまかれて困ったという。

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大正一昭和にかけ事業者続出

大正が15年で終わって昭和に移り変わるころには、小業者乱立の傾向を見せながら同時多発的に全道各地で沸き立つようなバス事業の開始が見られた。

道東、道北では、大正12年に伊藤自動車部(伊藤鉄次郎)が北見相生一舌辛(現・阿寒本町)間にトラックによる貨客運送の営業を始めている。13年には土沼助吉が釧路一弟子屈間でバスを営業、翌年同区間を石井自動車が譲り受けたが、競合となって6円の運賃を3円にダンピングする事態もあったといわれている。同じ13年、釧路市内でも釧路自動車株式会社が釧路駅一米町間、鈴木宗竹が米町一松浦町間で営業を始めた。15年には山田自動車部(山田栄助)が浜中一霧多布間、竹内伊作が留萌一羽幌間、層雲峡乗合自動車合資会社が上川一層雲峡間、昭和2年には桑島栄が利尻島一周循環線を走らせるなど相次いでいる。同年、今泉貞一は合資会社畑江工業自動車部として弟子屈一美幌間で営業を始め、その後フォードなど10 台を保有するまでに事業を拡大した。畑江工業自動車部と伊藤自動車部の両社は戦時中、東邦交通株式会社統合の母体となり、現阿寒バス株式会社の前身源流となる。

このころバス事業がおもに第一次産業の活発な地域とともに、温泉や観光地を結ぶ路線も始まったことは、バスの特性と可能性を示すものであった。そして大正12年の関東大震災は、全国的に新しいバスの時代の始まりを告げることになる。

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