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第2章北海道バス懇和会の誕生

目次

大震災後のバス進出

大正12年(1923)9月の関東大震災は日本史上最大の地震災害をもたらしたが、バス事業にとって新しい時代の始まりとなった。

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大地震は鉄道、軌道を壊し、橋を落とした。その復旧には多くの資金、労力、時間を要する。このため、東京市電気局は応急手段として、軌道の代わりにバス路線を増やして市民の足を確保する方針を決めた。安くて納期の早い米フォード社に1,000台(後に800台に修正)のトラック・シヤーシーを注文し、ボディーは国内業者に発注して組み立てることにした。

運転手は電車運転手から募集して速成教育し、翌13年1月、まずできあがった11人乗り44両で2系統の運行を開始した。このときは運転手だけのワンマンカーで、料金は1区間10銭、2区20銭であった。

この乗合バスは円太郎バスと呼ばれて市民に親しまれた。粗製乱造気味のボディーにトラックのシヤーシーとあって、乗り心地は円太郎という落語家にひやかされたオンボロ馬車と代わり映えしなかったための呼び名であった。円太郎バスは翌13年度末には運転系統20、営業距離148km、車両800両に達し、市民の足として大活躍する。

東京にはそれまでにも「青バス」と呼ばれる民営バスがあった。市電の補助と貨物輸送を目的に短い区間を走り、初の女性車掌を採用するなど、機動性を発揮していたが、なお新参者扱いされていた。

震災後の活躍でバスの有用性は改めて立証され、独立の本格的大量交通機関としてはっきり認知されたのであった。

これをきっかけにバス事業への参入が各地で続出した。地方長官の免許を得れば同一路線にも開業できたこともあって、乗合馬車は次々とバス路線に置き換えられて行く。

また一方で、東京市の成功は市営バス運営の気運を作り出した。鹿児島市、名古屋市(昭和4年)神戸市、札幌市(同5年)と市営バスが走りだした。

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札幌市営バスの誕生

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札幌に電車が走ったのは開道50周年の大正7年だったが、昭和2年には札幌市に買収されて市電となっていた。市内にはそのころ、民営バスの路線も増え、昭和3年には井高虎之助、射羽定次郎が札幌駅前を起点に、元村、中島、山鼻3路線13kmに「青バス」と呼ばれた3両で営業を始めた。これは後に札幌乗合自動車株式会社に変わった。

昭和5年10月、札幌市は市電の補助機関として、新車9両により、山鼻西線、山鼻東線、一条線の3路線計14.7kmに初めて市営バスの営業を開始した。運賃は1区6銭で、バスの色から「チョコバス」と呼ばれた。

しかし、民営バス路線と一部が競合することから、乗客の奪い合いとなり、無益な競争が激化したため、昭和7年、札幌市は青バスの買収方針を決めた。買収価格でなかなか折り合いがつかなかったが、ようやく12月、17万1千円で合意し、翌8年3月に両者の路線は統合され、路線長は計35.7km、保有車両は53 両となった。

市営バスは市電との競合を避け、連絡乗車を認め、料金は特別区を除いて電車と同じ6銭とした。夏季には銭函行きの海水浴バスをも運行した。昭和11年には路線も6路線に増え、車両は62両であった。

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日乗協の設立

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大正から昭和に変わり、大正天皇の大喪が行われたのは昭和2年(1927)2月だったが、翌3月、金融不安から恐慌の波は全国を覆った。バス事業は小さな資本と、1、2両の車両でも免許が得られて現金収入があることから、不況時にはさらに小業者の参入が相次ぎ、乱立を招いた。内務省が昭和元年にまとめたところでは、全国のバス事業者は2,220、うち約半数の1,042は路線延長 10マイル(約16km)以下であった。1事業者平均の路線延長別営業マイル数は19・4マイル(約31km)である。バス事業が新しい任務を社会的に求められながら、営業形態が旧態依然のままでは新時代には適応できない。打開を求める機運が熟していた。このため中央では同業者の共存を図り結束を固めて発展を目指そうと、同2年4月に日本乗合自動車協会(日乗協。のちに日本バス協会)が設立された。当初の会員は406で、任意組合の形でスタートし、 4年8月には社団法人として許可され、組織を固めた。初代会長は堀内良平(富士身延鉄道)であった。 5年には北海道から射羽定次郎と小泉菊次郎が理事に就任している。昭和7年末には会員数は475に達し、民業振興の旗印を掲げて、活発な活動を展開して行く。日乗協のおもな運動目標、活動状況を挙げれば次のようなものであった。1、バス路線のいわゆる濫許に反対し、1路線1 営業者主義を掲げて当局に申し入れた。2、昭和3年、ガソリンが1ガロン54銭から58銭に値上げの動きがあった際、会を挙げて反対運動を展開し、撤回させた。3、同3年、山形県でバスに対する道路損傷負担金問題が起こった際、創立日浅いにもかかわらず中央から反対運動を支援し、徴収を1年延期させた。4、昭和5年の国営バス、その後の市営など公営バスの開設に対して、民業圧迫反対との立場から阻止運動を展開した。

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軌道側のバスヘの警戒感

一方、鉄道・軌道事業側は、軌道を主としバスを従とするこれまでの関係を変える勢いさえ見えるバス事業の発展性に警戒を強め、鉄道同志会などは内務、鉄道大臣へ既得権擁護のため次のような陳情を重ねていた。 「近来、地方において鉄道軌道線路に並行または密接して自動車営業をなす者続出し、ために鉄道軌道業者に圧迫を与うること少なからず。右は時運の進歩に伴い自動車の発達するは当然の事なるべしといえども、鉄道軌道は巨額の資本を投下し数年を経て始めて若干の収益を得るものにして多大の努力を払いたる結果にほかならず。しかして鉄道軌道はいったん敷設を終えたる以上は長くその地方と盛衰の運命をともにするものなるも、自動車は僅少の資本をもって容易に業務を開始し、一朝不利なる場合はたちまち去って他に移り、地方の利害はごうも顧みる所に非ず。(中略)よって既成鉄道軌道に並行または密接せる自動車の出願に対しては、とくと鉄道軌道の利害を考察し、その必要ある場合はまずもって既設鉄道軌道の意見を徴し、兼営するの希望を有するときは他の出願に優先して許可し、もししからずして他に許可する場合は運賃その他において適当の条件を付し、鉄道軌道を脅威することなきよういたしたく(以下略)」(大正14年)

こうした陳情活動とともに、地方鉄道軌道側がいわゆるバスの脅威に対して講じた対策は次のようなものであった。

  1. 運賃収入の不足を補うため、沿線に百貨店、遊園地、住宅地(注・そのころ団地という言葉はなかった)などを開発、兼業する。
  2. バスにならって内燃機関によるガソリンカーを採用し、軌道上に走らせる。
  3. 沿線またはその勢力範囲に新免許、または買収によってみずからバス事業を経営、または事業を支配する。

最後の方策は大都市周辺などで行われ、昭和5年には地方鉄道軌道でバス事業を直営として兼業するものは139社、営業路線は5,000kmに達し、傍系会社に経営させるものは49社、1,300kmを超えた。こうして地方鉄道軌道によるバス事業は、バスの専業者と肩を並べるに至った。

この結果、バス事業の形態は、従来の地方資本によるもの、鉄道軌道系のもの、そして市営によるものと多様化した。

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道懇和会誕生は昭和5年

本道でも共存共栄を図るためには、同業者が親睦を深めるとともに、権益の調整、擁護のため業界団体の組織化が急務との気運が強まり、ようやく昭和 5年1月、「北海道バス懇和会」の結成となった。発起人は中田鶴吉、加藤幸吉、徳中祐満(室蘭自動車)河合繁(旭自動車=函館)射羽定次郎(札幌乗合自動車)出口慶次郎(日高自動車)野村文吉(十勝自動車)安井一夫(札幌乗合自動車)らであった。

同年11月には日本乗合自動車協会に加入し、北海道支部となった。初代支部長には中田鶴吉が選ばれ、事務所を札幌市北5条西6丁目1番地の札幌乗合自動車株式会社内におき、事務は同会社の職員が兼務した。

昭和7年、全道のバス業者数は164、所有自動車は427両、1業者平均2.7両という状況だったが、同支部への加入者は1割程度に過ぎなかった。小規模業者が多く、とくに道央圏の石狩、後志、空知地区は40業者を数え、全道一の乱立地帯となっていた。

また辺地では1、2両のバスを持つ業者が多く、他業者との関連もないので加入の必要を痛感しなかったようである。まず道支部の活動の大半は、結束を求めて同業者の加入勧誘にそそがれ、組織の拡大強化が先決とされた。

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