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第3章戦時体制下の苦難

目次

日中戦争開始で統制強化へ

昭和12(1937)年7月7日、北京郊外盧溝橋での日中両軍の衝突から日中戦争が始まった。戦火はやがて大東亜戦争・太平洋戦争へと拡がることになる。この時から経済体制は戦時統制へ急転換され、国民生活全般が厳しい試練にさらされた。昭和8年の自動車交通事業法の実施によって、ようやく整備が進むかに見えたバス業界も、かつてない苦難の道をたどることとなった。

12年9月には「輸出入品等臨時措置法」「軍需工業動員法の適用に関する法律」などの統制立法が行われたが、これらは輸出入に関する物資の需給を統制し、軍需工場の管理を陸海軍の管理下に置くものであった。また、物資の動員計画の作成のため企画院が創設され、鉄鋼、綿花、石油などの主要物資は、軍部が決める物資動員計画=物動計画の管理下に置かれた。

11月6日付で鉄道省監督局長から要旨次のような通牒が出され、バスの新規免許、運行の増加、増車など、事業の拡大に結び付く計画の一切が統制されることになった。「ガソリンを使わない車を除く」との但し書きがついていたものの、戦時体制がバス業界の活動を厳しく制約しようとしていた。(難解な漢字、カタカナ表現を読みやすく直した)

1、新規事業の計画に関する件新規事業の計画については自動車運輸事業たると自動車運送事業たるとを問わず、必要緊切にして真にやむを得ざるものに付き免許の詮議をなし、鉄道、軌道、自動車運輸事業等既設の交通機関を利用すればさして不便なき場合および交通需要の僅少なるもの等は免許の詮議をなさざること。

2、既免許事業の内容拡充計画に関する件自動車運輸事業の運転系統、運行回数の増大計画に付いてはガソリン消費量の増加を来す場合少なからざるをもって、原則として必要やむを得ざる場合のほか認可せざること。

自動車運輸事業における増車計画は基準規程による所要両数に達するまでの場合を除き、必要緊切にして真にやむを得ざるもののほか認容せざること。ただしガソリンを使用せざる電気自動車、木炭自動車、ガス自動車等の増車をなす場合はこの限りにあらざるものとなすこと。(後略)

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ガソリン一滴、血の一滴

自動車に欠かせないガソリンは9割を輸入に頼っていた。中国での戦争の長期化で、軍需物資の輸入が優先されるため、昭和12年10月、閣議は石油の消費統制に関する方針を決定し、第一段階として事業者の自発的節約により1割程度を目標とし、第二段階として翌13年からはさらに高度の消費節約が必要との見通しを明らかにした。

鉄道省は事変勃発と同時に、自動車用揮発油の需給調査を行い、部門別の需要量を掌握していたが、これはその後の消費規制、配給に役立てられた。

【自動車用揮発】

バス トラック 大型遊覧バス 自家用乗用 ハイヤー、タクシー 特殊車用
17,087kl 48,009kl 456kl 3,146kl 30,669kl 1,870kl
計 101,237kl

油平時需給量(昭和12年)

昭和13年5月からガソリンは購買券による配給制がとられることになった。これがさまざまな物資の切符制のさきがけとなった。この時、バスに対する規正率(「規制」の表現は避けられ「規正」と呼ばれた)は平時の推定需要量の17%であったが、この率は月を追って高められ、10月以降はバス4割、タクシー・ハイヤー5割、大型事業(定期および不定期遊覧バスを含む)7割にも規正は引き上げられている。14年1月からはタイヤ、チューブも切符制となった。

そして昭和14(1939)年9月、ドイツのポーランド進撃で戦火はヨーロッパに拡がり、第二次世界大戦が始まった。独伊と結んだ日本は米英と明らかな敵対関係となり、16年8月、アメリカは対日石油禁輸の戦略を発動した。石油は重要な軍需物資となり「ガソリン一滴、血の一滴」という標語のもと、それまで70-81%であったバスに対する規正率は、10 月には遂に100%となったのであった。

昭和15年9月、鉄道省監督局長に加えて内務省警保局長、燃料庁長官の連名による次のような要旨通牒が発せられ、遊覧輸送、併行路線が制限されたが、一般路線の運行確保さえ困難なのだから、当然至極のことであったろう。 「主として遊覧の用に供せられている運輸交通は極力制限すること。 鉄道、軌道またはバス相互間における併行路線、重複路線等についてはさらに徹底的に整理その他の処置を講ずること。

大型事業および不定期遊覧ならびに無償乗合事業は休止せしめること。」

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日乗協支部から道乗合事業組合へ

大正2(1913)年6月、函館の東雲町と湯川間で函館水電株式会社の電車が営業を開始した。馬車鉄北海道バス懇和会が昭和5年に誕生し、同年、中央組織に加入して日本乗合自動車協会北海道支部となってから10年余を経た16年3月10日、同支部は解散して北海道乗合自動車運送事業組合に組織を変更する。これは政府の指示による戦時総動員体制の一環であった。

政府はまず軍需輸送の効率化のためトラック輸送を統制し、15年1月3日、陸運統制令(勅令第37号)を公布した。これはいわゆる国家総動員勅令のひとつで、鉄道大臣に全面的な強権を与えたものであった。バス事業については、行政措置により事業者の自主的協力を得て調整を進めていたが、15年4月公布された自動車交通事業法の一部改正(16年2月実施)によって、バス事業者組織も大きく改められることになる。この「改正の要旨」について、カタカナ表記を改め、その要点を読みやすくしてみる。「自動車事業が産業上および国民経済生活上きわめて重要なる役割を有することは、その運送量および運賃額が国有鉄道に匹敵する事実に微して明らかなるも、今事変に際してはガソリン消費の規正、陸上輸送力の増強、物価政策の一環としての運賃政策等の喫緊問題に関して、自動車事業はさらにその主要性を加えたり。(略)しかるところ、自動車業界の現状は、事業態容の整備せるはわずかに旅客自動車運輸事業のみにして、大部分は規模小、経済内容脆弱なる小業者なるも、これを統合し組織化して国策に順応し、かつその事業を改善せしむべき方策につき、現行法の規定するところは必ずしも充分ならず。よって業界現下の実情にかんがみ、さらに新事態の要請に適応せんがため現行法改正の要あり」

つまり、国策の徹底のため、業界を一元化することが急務ということだが、ここから導き出された結論は次のようなものであった。 「運賃、運輸その他の事業の健全なる発達を自主的に行わしめんがために、新たに自動車運送事業組合制度を設くることとし、本組合制度の使命にかんがみ、必要に応じ、政府はこれに補助金を交付すること」。

これによって「自動車運送事業組合設立要綱」が制定されたが、ここにうたわれたのは(1)道府県を単位とする組合の設立(2)地区内における旅客自動車運輸事業者を全部その組合に加入させること、(3)組合の事業は運賃および運輸の統制、物資配給を主とすることなどで、ここに全事業者を打って一丸とする強制加入の統制団体の結成が指示されたのであった。

これに基づき、全国的にバス事業者組織の変更が進められた。北海道乗合自動車運送事業組合への組織替えもその一環であった。

昭和16年3月10日に発足した北海道乗合自動車運送事業組合は、理事長に杉江仙次郎(小樽)副理事長に片岡次郎(富良野)専務理事に加藤幸吉(札幌)を選任した。主な事業として、組合員の事業上必要な物資の委託による共同購入および配給ならびに斡旋が挙げられ、さっそく乗務員服、自動車用蓄電池、プラグなどの部品の共同購入、事業用諸用紙の共同印刷を行うこととし、その手数料を2分ないし5分と決めている。また、ガソリン、油脂、タイヤ、チューブなどの切符の交付団体としての指定を受けて、その配給事務を取り扱うようになった。

こうして、当初は親睦を深め、調整により共存共栄を図る目的で設立されたバス事業者の組織は、戦時統制の強化に即応して、行政官庁と事業者の中間にあって業界の利益を守り、結束を図るという新しくも困難な任務を担ってゆくことになった。

中央段階では昭和16年6月9日に日本乗合自動車協会が発展的に解消し、全国乗合自動車運送事業組合連合会(全乗連)が発足した。9月3日に認可が下り、、初代会長には五島慶太が選ばれ、理事には北海道事業組合から杉江仙次郎が就任している。

この年の8月、アメリカは在米日本資産を凍結し、石油輸出の全面禁止に出た。12月、東条英機内閣は遂に対米英戦争を開始した。以来、戦中と敗戦直後、バス事業者と組合組織は窮乏と混乱の中、輸送の大任を果たす任務に取り組むこととなった。

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ガス用木炭も配給、統制へ

バスの代用燃料化は至上命令であり、事業者は木炭や薪の確保に追われた。道内の事業者も、山林を購入して炭焼きと契約したり、古い枕木を活用して薪にしたり、さまざまな工夫を重ね、努力を続けた。一方、政府は不足する家庭用薪炭の需要確保をも図らねばならず、昭和16年6月、ガス用木炭の統制に乗り出し、ここでも配給制の実施を決めた。同月、農林省は札幌に木炭事務所を置き、道内産木炭の買い入れ事務に乗り出した。

石炭については、すでに前年、配給統制令を公布し、その担当機関として日本石炭株式会社が設立され、一括買い上げ、配分を行っていたが、ガス用木炭の統制事務を処理する機関として、日本瓦斯用木炭株式会社が設立された。

この会社の資本金は1,000万円で、20万株に分かれたが、うち65,410株をバス事業界が引き受けた。この会社はガス用木炭の生産から配給までを担当し、道府県段階にもそれぞれの地域名を冠した瓦斯用木炭会社が設置された。配給割り当ての実務にあたっては、道府県ごとに経済部、警察部、自動車運送事業組合代表らによる配給割当協議会を置き、会社名で使用承認書を発行することになった。発足したばかりの道乗合自動車運送事業組合が、すぐさまこの大きな任務に参加することが迫られた。

なお、同社は戦後、日本薪炭株式会社と変わり、昭和23年には閉鎖となったが、その段階での株主名には次のように北海道のバス事業者も多く見られる。

東邦交通70株、道南乗合130株、道北乗合170株、北海道中央260株、北見乗合70株、函館乗合120株、帯広乗合70株、札幌市50株、函館市40株(道外の大株主として東京事業組合5,230株、東京都交通局 8,830株、神奈川事業組合3,110株などがあった)

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早くから進められていた木炭バス研究

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バス事業者組織の一元化による統制の効率化、物資配給窓口の一本化はこうして進められたが、その間、ガソリン規正に関する鉄道省の通牒は、昭和16年7月19日付ではバスに対する揮発油の配給量を、木炭など代用燃料車は起動用に月1ガロン、ガソリン車は月75ガロンとしていたが8月19日付では代燃車のみ月1ガロンとし、ガソリン車には一切配給停止と急変するあわただしさであった。8月1 日からの米国の対日石油禁輸強化のしめつけによるものである。

バスに対する年間ガソリン割り当て量として、次の統計があり、急減する状況が明らかである。(推定平時需要量は210,516kl)

昭和13年 昭和14年 昭和15年 昭和16年 昭和17年
137,688kl 89,067kl 62,655kl 15,959kl 805kl

戦後の日本人は高度成長期以後、二度におよぶ石油ショックと、その波及によるトイレットペーパー、洗剤などの払底、近くは冷害によるコメ不足のほかは、物が消えてなくなるという不安を全く知らないが、戦時下の物資不足は国民全般にとってはもちろん、バス事業者にとって破局的であった。軍需工場要員など輸送需要は増える一方だから、代燃車への転換は至上命令とされた。

ただ、代用燃料への研究は意外に早くから進んでいたことが「バス事業五十年史」などに明らかにされている。

わが国で木炭自動車の試運転が行われたのは昭和 5年6月18日、代用燃料自動車普及会と全国薪炭連合会の共同主催であった。午前8時東京を出発した木炭車は19日名古屋着、翌20日午前8時55分大阪に到着した。397.7マイル(640km)を29時間50分で走り、使用した木炭は36貫(約135キログラム)であった。

石油のほとんどすべてを輸入に頼るだけに、商工省は昭和9年、ガス発生炉の使用を奨励し、これを自動車、気動車に採用した者に対し、設置に要した費用の半額、1台につき300円を限度に奨励金を交付することを決めている。この段階では研究も進んで数種の発生炉があったが、バスに使用されたのはわずか15というから、実験的な導入に過ぎなかったようだ。

だが緊迫した時局が方向転換を命じた。昭和14年 2月、政府はバス事業者に認可車両10両以上は2割以上、50両以上は3割以上を代燃車に転換するよう指示した。さらに月を追って転換割合は切り上げられ、昭和15年10月には全車両の7割を代燃車とし、遊覧については運行休止とする措置が取られた。そして、消防、救急など以外はすべて代燃化が指示されたのはちょうど日米開戦の日、昭和16年12月8日であった。

開戦翌年の17年4月に、商工省は代燃1基につき 300円の奨励金交付を決めている。代燃車への転換は急務となり、各社がそれぞれに工夫を強いられた。しかし、車体自体が老朽化し、補修材料に事欠き、稼働できないものが増えるものの、廃車とすれば基礎台数の減となり、燃料の配給に響いて不利となる。このため実働車は在籍車の40-80%という実態で、一方、輸送需要は増えるばかりであったから配車もサービスも難渋を極めた。

代燃バスへの転換が至上命令であったことは、昭和15年度に全国のバス台数のうちガソリン車が 10,224両、代燃車が11,976両、同16年度がガソリン車5,700両、代燃車15,847両であったのが、17年度にはガソリン車が0となり、代燃車18,552両となっているように容赦ないものであった。

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社長先頭に総動員で伐採に励む

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代燃車への転換はまず薪用、木炭用のガス発生炉を取り付けることから始まるが、既製品がすぐ間に合うわけでなく、各社の整備担当者がさまざまな工夫をこらした。 「古ドラムかんを買ってきて、それを切り開いて加工し、発生炉、冷却器、タール・灰取り器を作ったりした。(中略)丸鉄や平鉄も不足していて、発生炉用ロストルの材料がないので、馬の蹄鉄を道路から拾って来て加工し使ったりした。(中略)この代燃車は平坦区間はどうにか走ることができても、急坂路、峠道にかかるとなんとしてもカがなくなるので、乗客に下車してもらい、バスの後押しを願うことも度々だった。」(「北見バス20年」から)

その薪、木炭も手に入らなくなって、会社(注・北見乗合自動車株式会社)独自で国有林から払い下げを受けて切り出し、木炭生産に取り組むことになる。再び「北見バス20年」から要旨を引用し、総動員で伐採に当たった労苦をしのびたい。

「当時は定期バスは冬期間ほとんどが積雪のため運休していたので、この間にガス用薪、木炭の生産に励んだ。ある年は中島権太郎社長はじめ重役を陣頭に、温根湯温泉郊外に飯場を設け、従業員が合宿して裏山で伐採し、薪を生産した。当時の1日当たりの作業量は2人1組となって立ち木を倒し、それぞれ約2尺に切り、山頂から搬出道路まで運搬して、ここで長さ10尺、高さ5尺に積み上げ、5尺×10尺 1敷を切るのが目標であった。飯場の食料買い出しも大変で、担当して苦労されたのは大江常務であった」

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ガス利用のアイデアに苦心

「道南バス七十年史」にも代燃車転換への技術者の苦心談がくわしいので要約する。

軍需工場地帯の輸送の大任を担う室蘭自動車(現・道南バス)は、まず灯油を代用燃料として使用するとともに、木炭バスへの切り替えを研究していた。このころ、大阪交通局で「自動車用木炭ガス発生炉が開発された」との情報があり、さっそく技術者を派遣して7台の試作機のうちから1台を入手し、さらに3台を分けてもらって研究を重ね、他社に先駆けて木炭バスヘの切り替えに成功した。この直後「日鉄八幡製鉄所が石炭ガスを圧縮して使用する機械をドイツから輸入した」との情報があった。都市ガス用の石炭ガスをボンベに詰めて用い、自動車にも利用できるということで、自動車メーカーの梁瀬でも同様な研究をしていたので、技術者を派遣して研究に参加させた。

当時、徳中祐満社長は日鉄輪西製鉄所のコークス炉から発生するガスの余りを利用して供給する「室蘭瓦斯株式会社」の社長を兼務していた。この石炭ガスをボンベに詰めれば自動車の代用燃料として好適だが、そのためには、まずガスの硫黄分を取り除く脱硫装置、ガスを圧縮する高圧圧縮装置、さらにボンベに詰める充填装置を設置した専用工場が必要であり、それは緊急を要した。室蘭瓦斯の技師が専任となって工事を急いだが事業認可がなかなかおりず、あげくは商工省に呼び出されて説明して、大臣室(当時は岸信介大臣)でようやく認可をもらうという一幕もあったという。

さいわい日鉄、日鋼、函館ドックなどの援助もあって工事は順調に進み、16年9月には操業を開始できた。この石炭ガスは木炭ガスに比べ強力なうえ輸送に便利で、他社に比べて恵まれていたと言える。しかし、同社には軍需工員輸送の任務が重くのしかかり、車両はフル回転で、最終車は夜の12時ころとなり、それから全車両を圧縮工場に集めて燃料を充填しなければならない。このため圧縮工場の係員は点検を終えて帰るのは深夜の2時か3時、ときには朝の7時、8時になることもあったという。

石炭ガスへの転換は創意と工夫で乗り切ったものの、物資すべてが不足して、新車の購入はもちろん叶わず、タイヤ、チューブをはじめ部品の補充も困難なため、故障車の修理もままならず、輸送力は日に日に低下の一方だった、と同社史は暗い時代の苦心談を結んでいる。

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ハイヤーと統合、乗客旅客組合に

バス、トラックが大量輸送機関として戦時下の任務をいっそう重視されたのに比べ、ハイヤーは救急の場合を除いては不急不要の部門との見方が強く、政府は積極的な方策をとらなかったが、代用燃料化を迫られる事情は同じであった。さらにその使用車両はほとんどが外国車で、部品の輸入も途絶えてからは営業自体がほとんど開店休業状態を止むなくされていた。

昭和15年、ハイヤー業界に転業による統合推進の方針が示され、同年7月の旭川地区を皮切りに統合が進められ、9月には函館地区、11月釧路地区、12 月帯広地区とそれぞれに統合会社が生まれ、翌16年には札幌、小樽、室蘭各地区でも統合が実現した。さらに17、18年には第2次、第3次の統合が推し進められた。

道庁警察部の指導もあり、これらハイヤー業者による「北海道旅客自動車運送事業組合」が組織され、理事長には平賀松治(札幌・ヒラガ交通)が選任された。

やがてこの組織は昭和18年12月7日、バス事業者の組織「北海道乗合自動車運送事業組合」と統合して「北海道乗合旅客自動車運送事業組合」として一本化される。新組織の理事長は杉江仙次郎、バス部会長に加藤幸吉、ハイヤー部会長に伏木田隆作、常勤理事に伊藤琢磨が選任された。

19年には「決戦非常措置要綱」が発表され、この時の重点輸送強化実施要綱でタクシー、ハイヤー営業については「従来の辻待ち、流し営業は禁止し、専属配車、緊急配車に限り配車すること。専属配車とは主要産業地帯における官公署、重要工場、事業場、駅等に台数を特定し、配車するものをいう。緊急配車とは官公吏、その他の重要産業経済人の突発的需要に応ずるため、並びに救急用として事業者から緊急に配車を行うものをいう」とあり、自由な営業はまったく不可能となり、戦力増強の足としての位置づけが露骨に示された。

譲渡、合併は重ねて進められ、第3次統合を終えたとき、275を数えた全道のハイヤー業者は、わずか次の4地区4業者となっていた。

[中央地区]北海道交通株式会社・取締役社長平賀松治、常務取締役柴野安三郎

[函館地区]相互自動車株式会社・取締役社長石田連治、専務取締役下山三郎

[旭川地区]旭川合同自動車株式会社・取締役社長金森勝二

[帯広地区]帯広交通株式会社・取締役社長岡崎公一、取締役支配人阿部全勝

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省営バスの日高進出

鉄道省が昭和10年に発表した日勝線(浦河町一幌泉町=現・えりも町)に12年から省営バスを運行するとの計画は、民間側の強い反対運動で消えたかに見えたが、18年、陸運の統制強化の一環として再び登場した。戦争遂行のため軍需優先の輸送が急務となり、政府は北海道鉄道株式会社から富内線を買収して国鉄線に統合するなど、輸送体系の整備に努めていた。バス路線についても、営利を優先する民間業者に採算を犠牲にすることは強制できないので国営化が妥当であるとの理由で、日勝線と石狩線が浮上した。日勝線については鉄道予定線の先行および短絡、石狩線については鉄道撤去線の代行という名目であった。

昭和18年3月から札幌鉄道局は日高自動車株式会社と話し合いを始めて、買収の交渉が妥結し、同年 8月から鉄道省は日勝線として本様似一歌別一庶野間(43km)と歌別一襟裳間(12km)に省営バスを運行した。また、石狩線の石狩月形一滝川一石狩追分間(51km)も10月開業した。

しかし、間もなくバス事業大統合の波が覆う。そして19年4月には省営バス札樽線も運休となる。

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