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第10章 バス運賃制度めぐる動き

目次

初期は馬車との比較で決まる

北海道のバス事業は、全国とほぼ同様、鉄道の及ばない地方、根室、釧路、日高などから新興の交通機関として始まった。こうした地方の交通はそれまでは乗合馬車の領域であったから、バスの運賃は馬車との比較で決められ、一般に鉄道より高額な運賃が是認された。だから初期のバス運賃は地方ごと、業者ごとにまちまちであった。

昭和7年、北海道庁警察部調べによる道内主要路線の運賃を見ると、札幌駅前-簾舞21kmが46銭、旭川1条通1丁目-美瑛21.4kmが50銭、釧路-昆布森 19.8kmが90銭、丸瀬布駅前-鴻之舞222km1円38銭と、乗客数、利用率などを反映してばらつきが見られる。

これが昭和15年の調べでは、札幌駅前-簾舞21km が42銭、旭川駅前-美瑛25.5キロ45銭、丸瀬布-鴻之舞鉱山23.0km1円と、一様に低下しているが、鉄道との併行路線は低く、鉄道のない区間および山間の路線は高くなる傾向が見られた。

道内のバス運賃はこの昭和15年を最低に、翌16年から諸資材難を背景に徐々に上昇に転じ、昭和15年に平均1人1km当たり3銭程度であったものが20年には3倍の9銭となり、終戦後には急上昇して、21 年3月に物価庁で算定した道内の事業者別バス運賃(1人1km当たり,単位銭)は次の通り8.5倍となっている。

北海道中央乗合24.0、函館乗合26.3、道南乗合 25.5、道北乗合26.2、帯広乗合24.4、東邦交通25.7、北見乗合25.6、平均25.4。

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ようやく全道一律に

終戦後のバス運賃は昭和21年に改訂されて、1人 1km当たり平坦地20銭、山間地25銭を標準に、事業者の経営事情を勘案して、路線ごとに認可していた。認可は運輸大臣の権限で、地方長官に委任されていたが、物価統制令が施行されてからは物価庁長官がインフレ抑制のため諸物価との関係で調整を図ることになった。

昭和22年2月の改訂認可で、賃率はkm当たり40銭(ただし最初の1kmは50銭)となったが、インフレに追われて3カ月後には実態に合わず、山間部3割、雪国地の北海道1割5分、その他5分増の改訂となった。しかしこの程度の改訂ではインフレに追随できるものではなく、同年7月、当時の全国乗合旅客自動車事業組合連合会が代表して運輸省に運賃改訂を訴え、1km85銭、ただし最初の1kmは1円、最低運賃1円という認可を得た。

この際あわせて通知されたものに「50銭ラウンドナンバー制」と「旅客に付随する物品の運賃」があった。50銭ラウンドナンバー制とは、これまで四捨五入して10銭単位の切りのよい数(ラウンドナンバー)としていたものを、小額貨幣が不足していた事情もあり、25銭以上切り上げ・25銭未満切り下げの方法をとることを認めたものであった。旅客に付随する物品の運賃とは、それまでまちまちだった乗客が運ぶ品物の運賃を規定したもので、重量10キロ容積0.2 立方メートルまでは無料、20キロ0.66立方メートル未満は普通運賃の半額、20キロ0.66立方メートル以上は普通運賃と同額と定めた。インフレで10銭の価値が減り、小銭が払底し、食料の買い出しで大きな荷を抱えてバスに乗る人の多かった当時の事情を反映する制度であった。

こうしてバス運賃は原則的に全国一律の対キロ制が採用されたが、実際には従来の区間制を続ける業者が多く、不均衡となって乗客とのトラブルも生じたため、昭和23年3月、物価庁は、対キロ制運賃は区界を2kmまたは3kmの等距離間に是正し、都市交通ではなるべく均一運賃にするよう通達した。これで各地区まちまちであった運賃は、ようやく全道的に統一のとれた賃率となった。

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インフレ下相次ぐ料金改訂

インフレと値上げの追いかけっこは続いた。昭和 23年5月、第3次改訂で1km1円50銭と認可されたが、翌々7月には2円25銭に改訂されるというあわただしさであった。この時、山間路線3割以内、雪国地割増・北海道2割以内、その他1割以内の割増となった。

しかし、インフレと資材入手難は続き、翌24年4 月、日本乗合自動車協会は全国の業者を代表して値上げ申請した。この時の改訂理由には次のような諸点が挙げられていた。 (1)人件費の増加=昭和23年7月の全国バス従業員の平均賃金は4,958円程度であったが、官庁が6,300円、私鉄が5,700円ベースとなるので、これに準じて増額を要する。(2)ガソリン税の創設=ガソリン税100%が賦課されるもようだが、26%のガソリン車をもつバス業者は燃料費が相当加算される。(3)乗車密度の低下=昭和22年12月の全国平均バス乗車密度は20.3 人であったが、23年11月には16.3人に低下した。(4) 最低運賃10円に=長距離客優遇のため運賃区界を変更し最低運賃1区10円に。(5)山間・雪国割増の増額=山間部5割、雪国地3割の原価計算に対し据え置きが続いているので是正のため5割増額を。

ちょうど昭和25年4月から通行税が廃止となり、運賃の中のこの分と、タイヤ、チューブ補給金の廃止を差し引きしても値上げは妥当と見られたが、基本運賃2円25銭が据え置きされただけであった。

翌26年5月、日乗協は普通運賃3円20銭、北海道は別途運賃制度にするよう陳情した。インフレ抑制を優先する政府もこれを認めざるを得ず、10 月、地区による3段階制、上級賃率3円30銭、中級同3円、下級同2円60銭を認可した。北海道の次の事業者は上級賃率が適用された。 札幌市、北海道中央バス、函館バス、帯広乗合、道南バス、北見バス、東邦交通、函館市、旭川市街軌道、定山渓鉄道、士別軌道、三菱鉱業、早来鉄道、寿都鉄道、北紋乗合、道北乗合、根室交通、東藻琴交通、夕張乗合、斜里バス、大沼電鉄、苫小牧市、下湧別村、ニセコ観光

上級賃率の適用は42業者(14%)で、下級賃率の適用されたのは仙台市、秋北乗合、東京都、横浜市、宮崎交通、鹿児島市など62業者(20%)、その他205業者(65%)が中級適用となっている。

同時に割増は山間が3割以内、雪国地が北海道 2割以内、青森・秋田など1割5分以内となった。また、運賃割り引き制度がとられ、学生定期、回数券、小児券、身障者などの定率割引が決められた。

北海道バス協会はかねてから冬期除雪運行について、標準運行費に比べて積雪期には1.7倍もの経費を要するとのくわしい調査資料を付して実情を訴え、割増を強く要望していたが、ようやく昭和25 年12月、物価庁は5割以内で妥当な割増率を認可するよう指示した。(第8章参照)

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定額制移行でいっせい改訂

バス運賃から物価統制令の適用が解除され、運輸大臣の権限に戻ったのは昭和27年8月であった。これからは道路運送法により、事業別に経費の分析をして原価を算出し、適正な定額運賃を適用することになり、差し当たっては現在の実施運賃がそのまま定額運賃とされた。

この定額制移行で道内事業者の企業収支はひとまず安定したものの、車両・設備の更新、人件費の高騰などから再び悪化し、昭和32年、道バス協会が中心となって全事業者の原価計算を行い、32社がいっせいに運賃改訂を申請し、運輸省は一括して運輸審査会に諮問した。翌33年1月に出た答申は一様に「平坦の場合、1人1km当たり賃率4円15銭として算出した運賃を認可することが適当」というものであった。運輸省はこの答申に基づき、同年11月、1km4 円15銭、北海道地区割増2割以内としてそれぞれの申請業者に認可した。このときの32業者は次の通り。

北海道中央バス、定山渓鉄道、三菱鉱業、夕張バス、夕張鉄道、ニセコ観光自動車、函館市、函館バス、相互自動車、道南開発産業、道南バス、早来運輸、道北乗合自動車、旭川バス、旭川電気軌道、士別軌道、宗谷バス、沿岸バス、名士バス、層雲峡交通、十勝バス、道東バス、北海道拓殖鉄道、東邦交通、阿寒バス、根室交通、北見バス、網走バス、東藻琴交通、斜里バス、北紋バス、穂別町(以上32業者のほかの改訂認可は札幌市が昭和26 年10月3円30銭、寿都鉄道が28年1月3円30銭、苫小牧市、てんてつバスが36年4月4円15銭であった)

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貸切バス運賃の変動

貸切バスの運賃は初期には業者ごと、地域ごとにまちまちで、体系化されていなかったが、昭和15年 8月に至り、北海道庁警察部が大型バスの標準運賃を発表して、できるだけこれによるように業界を指導した。次ページ別表のように3段階に分け、均一割では14人乗り以下最低1円、最高1円50銭、20人乗り以下最低1円50銭、最高2円、21人乗り以上最低2円、最高3円とし、さらに貸キロ制、時間貸制をもくわしく規定している。

戦後、物価統制令下の昭和22年10月、北海道乗合自動車運送事業組合の申請により認可された「団体旅客自動車の運賃」では、別表のようにガソリン車が1時間245円、木炭車が300円、1日貸(8時間)ガソリン車1,965円、木炭車2,400円とされていて、ガソリンが占領軍用のほかには使用がむずかしく、ほとんどが木炭車であった事情を物語る。

貸切団体旅客運賃 (昭和22年10月28日・北海道庁、単位円)

(1)1時間貸切:ガソリン車/245 木炭車/300

(2)1日貸(8時間):ガソリン車/1,965 木炭車/2,400

(3)1車1:ガソリン車/16 木炭車/20

(4)1日貸の場合8時間を超える作業時間について、次の運賃または待料を徴収することができる。

(一)実働の場合:実働8時間までごとに1時間貸運賃

(二)実働しないで待機する場合:待機1時間までごとに150円の待料

(三)雨雪泥坂悪路割増率(イ)坂悪路2割増(ロ)雪国地1割5分増

一般貸切旅客運送事業が許されたのは昭和23年8 月であったが、ガソリン、軽油の配給は占領軍関係 の輸送以外には認められなかったから、現実に貸切 バスの走ったのは27年ごろからであった。

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経企庁が物価のお目付役に

経済白書が「もはや戦後ではない」と述べて国民生活の向上を確認したのが昭和31(1956)年。池田勇人内閣が国民所得倍増計画を決定したのは35年12 月で、高度成長を国家政策として推進する方針が明確にされた。37年には全国総合開発計画が決まり、新産業都市を開発拠点として過密都市問題と地域格差の解消をめざす方向が示された。インフレは収まっていたが、物価の騰貴傾向は続き、政府は値上げ反対の世論にこたえて公共料金抑制策をとり、自動車関係運賃についても黒字経営業者には認めない方針を打ち出し、経済企画庁をその監視役としたので、運輸省所管のバス運賃も経企庁の了承なしには決められなくなった。昭和37年以降、道内バス運賃の値上げ申請は業者ごとに行われ、同年中には24業者が5円30銭-7円で認可となり、翌38年には9業者、39年には2業者、 40年には2業者と第2次値上げを一巡し、第3次としては40年から42年にかけて32業者が6円50銭から 10円60銭の間で一巡した。こうしてバス運賃の改訂申請は二重の所管庁のきびしい審議に耐えるものでなければならず、申請書の作成には専門的な知識を必要とするようになった。その反面、資材、人件費の相次ぐ高騰、諸税の増徴など、バス事業の経営環境はしだいに困難になってきた。道内ではさらに過疎化による問題も重なり、事業の合理化が迫られる時代となっていた。

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全道大型バス貸切運賃

全道大型バス貸切運賃(昭和15年8月・北海道警察部・単位円)

※市町村内(千戸以上の連澹[れんたん=注・軒を連ねるの意]市街に適用)

(1)均一割

市町村内 14人乗り以下 20人乗り以下 21人乗り以上
市町村内 最低 1.00円 1.50円 2.00円
市町村内 最高 1.50円 2.00円 3.00円

(2)貸キロ

 
  14人乗り以下 20人乗り以下 21人乗り以上
2km以内につき 最低 1.00円 1.50円 2.00円
2km以内につき 最高 1.50円 2.00円 2.50円
2kmを超過する2kmまたはその端数 最低1.00円 1.50円 2.00円
2kmを超過する2kmまたはその端数 最高 1.50円 2.00円 2.50円
待車賃10分まで無料、10分を超過する10分またはその端数 最低 20円 30円 40円
待車賃10分まで無料、10分を超過する10分またはその端数 最高 40円 50円 60円

(3)時間貸

  14人乗り以下 20人乗り以下 21人乗り以上
30分以内 最低 1.80円 2.30円 2.50円
30分以内 最高 2.30円 2.80円 3.00円
30分を超過する30分またはその端数 最低 1.80円 2.30円 2.50円
30分を超過する30分またはその端数 最高 1.80円 2.00円 2.30円
半日(5時間) 最低 8.00円 12.00円 16.00円
半日(5時間) 最高 12.00円 16.00円 25.00円
1日(10時間) 最低 13.00円 17.00円 25.00円
1日(10時間) 最高 20.00円 25.00円 35.00円
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2年ローテーションシステム採用

札幌で冬季オリンピックの開催された昭和47年2 月、乗合バス運賃制度の抜本的な改正がなされ、いわゆる2年ローテーションシステムが採用された。これにより道央、道南、道東、道北ブロックごとの運賃改訂申請、認可のかたちが取られ、また貸切バスについても新制度により10月から改訂され、一応の安定を見たように思われた。ところが翌48年10月、第4次中東戦争が勃発して、軽油をはじめ石油製品、諸物価が高騰し、これにつれて賃上げ要求も激化し、バス事業者は二重の困難に見舞われ、49年2月、乗合バスの2年ローテーションの期間短縮による早期認可をめざしてほぼ一斉に申請した。その後ようやく物価が沈静したかに見えた昭和54 年、第2次石油ショックがバス事業者を襲った。この時も2年ローテーションの1カ月繰り上げを求めて申請、衆院選挙のため認可が遅れて、前回改訂より1週間早い値上げ実施に一息つくという窮状に迫られたこともあった。2年ローテーションシステムは平成4年に至り、そのパターンが崩れ、地域の実情に即して認可申請が行われるよぅになっている。貸切バスも同様、諸物価の高騰と人件費増に加えて、バスのデラックス化による経営圧迫もあった。日本バス協会は制度改定について見直すため各ブロックの意見を集約して運輸省と折衝を重ねていたが、昭和62年、幅運賃10%から15%への拡大が決まった。

平成3年8月20日、さらに時間制、距離制のほかに、利用者にわかりやすく収受しやすい運賃とするため、行き先別運賃制度を導入し、定型化した輸送については定額制を実施するようになった。

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ようやく実現、乗務員宿泊料別途収受

一方、道バス協会にとって運賃、料金の適正収受と連動して、すでに他府県で定着していた「乗務員の宿泊料別途収受」問題は、安定的な経営基盤を確立し輸送の安全確保と良質なサービスを提供するうえで、なんとしても実現を図りたい課題であった。他府県の事例研究、数度にわたる委員会での協議の結果、足並みを揃えた旅行エージェントとの協力関係も確立し、平成4年7月1日から念願の実費収受の実施にこぎつけたことは、業界の大同団結の証左であり、画期的な出来事であった。時あたかも軽油引取税率の改定、バブル崩壊による価格破壊等の影響を受けて経営環境が悪化していた時期であっただけに、この取り組みは収支改善の救世主ともいえた。しかし、この期を境に価格破壊は一段と進行し、エージェント間の価格競争のあおりも受けて、認可運賃と実勢運賃との乖離が顕著となり、平成3年以降、運賃改訂の機運は遠のき、規制緩和による認可制から届出制への移行による、新しい時代に対応した運賃制度の制定と実施が待たれることとなった。

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