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第11章 新時代の労使関係を模索

目次

慣行化した春闘ストに批判も

バス事業者の経営にとってなによりも重要なのは労使関係の安定であり、その収支を大きく左右するのは運賃とともに人件費だが、賃金交渉などの争議はただちに利用者の足を奪うことにつながるので社会的な影響は大きく、時には労使ともに利用者と世論から厳しい批判を受けることも多かった。

昭和28年6月、北海道中央バスの組合は賃金交渉が決裂して24時間ストから11日間に及ぶ長期無期限ストを行い、地域社会に大きな影響を与えた。また組合内部にも闘争路線をめぐって対立を生み、ついに分裂に至った経過があったが、のちに大同団結して交通労連の一員として全日本民間労働組合協議会に参加した。

昭和29年8月には、函館バス労働組合が結成してすぐ組織問題から争議に入って21日間のストを行い、翌30年には賃上げをめぐって53日間に及ぶ全線ストとなり、一部の路線に相互自動車や函館市交通局の乗り入れを招く事態となったことがあった。

これらの背景には、組合運動がようやく誕生したばかりで、労使ともに不憤れと不信感から、いたずらに対立を深めた背景も見られた。労使が正常なあり方を模索する段階であったから、ややもすれば交渉・実力行使・ストと短絡的な経過をたどることが多かった事情もうかがえる。

しかし、交通ストは影響が大きいだけに、春闘が全国的な規模で毎年行われるようになってからも、実力行使の最大の武器とされることが多かった。総評などの春闘共闘会議が国民春闘の名を掲げて賃上げを要求し、主力の交通ゼネストが首都圏の交通を麻痺させたのは昭和49年、狂乱物価、第1次石油危機のさなかだった。このころから道内でも、私バス労働組合の多くが参加する私鉄総連道地方労働組合は春闘のチャンピオンと目され、関係各社との集団交渉は、深夜早朝に及んでスト突入という事態が毎年のように続いた。

首都圏で初めて春闘が交通ストを回避して妥結した昭和57年には、中央の私鉄総連も14年ぶりにストなしで収拾したが、道内では私鉄道地労組は地労委の職権斡旋を拒否して第2、3波までもつれこんだ。翌58年春闘も中央ではストを回避し、賃上げ率は暦年調査で最低率の2.55%に終わったが、道内では関係各社が「ワンマンバス乗務時間の延長」を提示したため交渉は難航し、ようやく第4波で地労委が斡旋して解決した。

円高不況下の61年には中央の春闘相場は史上最低額となったが、道内では会社側がワンマンバス乗務時間延長の再提案をしたこともあってストは第3波まで続行され、10,900円で妥結した。63年にはスト突入後8時間で妥結したが、この時は異例のスピード解決とされ、「バス離れに危機感、双方長期化避ける」と新聞は解説した。だが翌平成元年にはまた第3波ストまでこじれ、交渉は難航した。

格差是正を旗印とする要求が多かったが、地域事情により、企業規模により、経営の実情はさまざまで、スト戦術には対応するすべなく、各社とも苦渋の選択を強いられた毎年の春闘であった。年々賃金ベースは高まり、人件費率の増大は経営を圧迫するとともに、乗客からは利用者不在の労使関係という厳しい批判を招いたのは残念なことであった。

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集団交渉めぐって対立

春闘における労使間題の一つに交渉方式があった。私鉄道地労組は、加盟バス会社労働組合を支部組織として傘下におさめ、交渉3権(交渉権、スト権、妥結権)の委任を受けていた。これを根拠として、昭和35年から私鉄関係会社で構成する私鉄労務委員会との集団交渉を毎年成立させていた。しかし、私鉄関係会社の中には、この集団交渉に疑問を持つところが出はじめた。昭和47年、北紋バスが集団交渉不参加を打ち出したことを初めとして、50年には士別軌道がこれに続いた。しかし、いずれも組合側が北海道地方労働委員会へ調停申請を行い、道地労委の調停案を労使双方が受諾するに至っている。もっとも長期化したのは北海道拓殖バスであった。昭和52年、北海道拓殖バスは、自社に妥結意思があっても他社関連でスト闘争に組み込まれるとして、集団交渉不参加を回答した。私鉄道地労組は、直ちに調停申請を経て不当労働行為救済申立を行った。道地労委は、すでに集団交渉が慣例化しており、合理的で特段の事由がなければ、従来どおり集団交渉に応ずべきとして、不当労働行為と判断し救済命令を行った。しかし、命令の内容が不十分で不服とする私鉄道地労組は中央労働委員会に再審査申立を行い争ったが、最終的には中労委の和解斡旋をのみ、この申し立てを取り下げた。その後も、集団交渉不参加をめぐる地労委提訴は、 54年に北海道拓殖バス、平成元年に函館バス、旭川電気軌道、平成2年に北見バスと続いたが、いずれも道地労委の態度は変わらなかった。労使交渉をめぐる環境は大きく変化してきた。平成10年の’98春闘で私鉄大手は、「大手労使会議」を設置してその後は個別交渉で各社の責任で解決してゆく手法をとった。この「大手労使会議」方式は地方ブロック集団交渉にも影響を与え、個別交渉は東北・北陸・四国ブロックヘと波及していった。こうした動向に私鉄道地労組は、組織の危機感から平成11年、’99春闘の集団交渉体制維持へ奔走しはじめた。一方、会社側は、歯止めの利かない輸送人員の減少と慢性化する累積赤字額を抱え、金融機関からは経営合理化を条件とする融資制限に追いつめられてきていた。しかも、私鉄大手を親会社とする道私鉄会社は、自己責任での経営が強く求められ、さらに平成13年からの規制緩和へ向けた企業体力の確保にも迫られていた。労使双方がぎりぎりな環境の渦中に置かれていった。バブル経済がはじけて生じた巨額の不良債権の発生は、日本の金融危機を招き、深刻な不景気と雇用不安をもたらした。完全失業率が過去最悪となる中で、’99春闘は始まった。私鉄総連は、平均賃上げ方式から個別賃上げ方式に変更し、「高卒30歳・勤続12年の標準労働者」で 9,100円(私鉄道地労組は1人平均賃上げ方式13,000 円)の要求を掲げた。3月9日、第1回の道私鉄集団交渉では3社が個別交渉に移り、12社が参加した。その冒頭で会社側は、私鉄関係会社の輸送人員が、毎年3百万人から5百万人の減と一向に歯止めがかからず、累積赤字も依然累増している現状に触れ、自己責任による企業存続への決意、平成13年からの規制緩和へ向けた企業体カの確保、賃金よりも雇用の確保を主張し、この交渉を私鉄総連のいう「労使会議」に位置づけた上で、個々の企業経営の実態を重視し、「個別交渉」を視野にいれた交渉への移行を申し入れた。労使双方の琴線に触れる問題に、私鉄道地労組は強く反発したが、波乱含みのまま時代が流れはじめた。

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