会員事業者一覧

第12章 大型化、長距離化の時代へ

目次

大型ディーゼル車が先導役

レジャーという言葉が使われるようになったのは昭和36(1961)年。ひたすら再建のため働いてきた国民にも余暇を楽しむ願いが夢でなくなってきたこの年、バスによる輸送は全国で70億人の大台に達した。すでに昭和27年に戦前の最高人員を突破して20億人を超えていたが、この間、国鉄の輸送人員の伸びは34 億人から53億人だから、バス輸送量の伸びはほとんど爆発的といえた。昭和39年にはついに100億人を突破する。

バス輸送がこのように急激に成長した理由は、戦後、鉄道輸送の復旧が遅れた一方、道路の改良が進み、車両の大型化、ディーゼル化が促進されたことなどが挙げられるが、なんといっても最大の理由は、バス輸送の機動性、簡便性が多くの利用者の支持を得たことであろう。

この牽引車となったのは大型ディーゼルバスであった。もともとディーゼル自動車については、昭和 8、9年ころ、燃料節約の見地から三菱などが開発して製作を始めており、戦後は昭和22年から日野、いすゞ、民生などが競って量産に入っていた。ほぼ5 年ごとのバスの平均定員を見ると、バス大型化の推移は歴然とする。

昭和5年17人、昭和10年19人、昭和15年23人、昭和20年26人だったのが、昭和25年は38人、昭和29年は47人と急増しているのは、大型ディーゼル車の比重が高まっていることを示している。

大型化によって輸送力が高まるのとともに、バス事業者が展開したのが長距離化であった。地域・近郊の輸送、鉄道軌道の補完というそれまでの役割から、バスが新しく独自の活動の分野をめざす動きであった。たとえば昭和29年、道内の100kmを超える免許路線には次のようなものがあった。

会社 区間 km程 所要時分 運賃・円 回数
函館バス 松風町一久遠 134.9km 7.00分 645円 1回
松前一函館 101.4km 4.30分 345円 2回
道南バス 苫小牧一浦河 123.5km 5.10分 425円 1.5回
帯広乗合 帯広一阿寒 122.7km 5.00分 400円 1回

全国的にもこの流れが強まると、長距離バスに対抗して、沿線の既存の鉄道軌道、バス事業者が提携して急行の長距離バスを企画するなど、道路の改善整備に拍車をかけられて、長距離バスブームの様相が強まり、現在に続く分野の開拓がこのころから盛んになってゆく。乗り心地のよいエアーサスペンションバスが登場するのも昭和30年代である。東北急行バスが東京と山形、仙台、会津若松を結ぶ路線を開業したのは昭和37年であった。

→ページの先頭へ

急激に進んだ道路網の整備

広大な樹海を背景に、緑のパッチワークのような田園を縫って伸びる道、いま北海道をドライブする人には信じられないだろうが、つい30年前まで、ほとんどの道は砂利、石ころのソロバン道路で、雨の日は泥、晴れればほこりの舞う悪路であった。とくに雪解けのころは悩まされた。東邦交通株式会社(現・くしろバス)の記録には「運行許可は下りたが、ドロンコ道で運行不能路線出る」(昭和37年)「雪、雨で道路状態最悪、運休出始める」(昭和40年)「ときならぬ雨、ツルツル道路でバス全線ストップ」(昭和41年)と担当者の悲鳴の聞こえるような記述がある。郊外も市内も同様で、大半が大型ディーゼル車にまったく適さない道だった。

もともと戦前に優先的に改良されたのは軍事輸送目的の道路が多く、それも戦時中の酷使で傷みが激しく、その復旧について昭和23年、連合軍最高司令官から覚書が出されて、やっと政府は道路維持修繕 5ヵ年計画を立てて着手した。その途中、昭和27年の15ヵ年計画で手直しされ、これにはガソリン税が有力な財源となった。ようやく昭和29年の道路整備 5ヵ年計画で本格化し、一級国道、二級国道、主要地方道の改良、橋の改修などに総額2,600億円、うち国費1,680億円を投入する緊急整備プランが確立した。これにはガソリン税を5年間で1,400万円を見込んでいた。

東京オリンピックが開かれ、日本の経済成長が国際的に認知されたのは昭和39(1964)年。オリンピックはそれまでの貧弱な道路網を飛躍的に改善する機会になった。名神高速道路の一部が開通し、東京の高速道路が突貫工事で完成し、東京モノレールが走り、東海道新幹線が開業した。道路の舗装は国道から地方道に延びていった。

初めてのハイウェーバスとして注目されたのは名神高速バスだった。日乗協が重ねて免許促進を陳情し、ようやく5日間にわたる公聴会が開かれ、申請した13社が激しい論戦を繰り広げた結果、国鉄バスを含む3社に免許が出たのはオリンピック開幕寸前の9月であった。10月5日、名古屋-神戸間に高速バスがスタートした。

→ページの先頭へ

札幌五輪でできた高速道路

国の道路整備計画はいわゆるイザナギ景気の波に乗って進行した。昭和45年の自動車道路整備第6次 5ヵ年計画は10兆円を越える予算で、財源として自動車重量税が決められた。この計画は昭和48年に見直されて第7次5ヵ年計画となり、さらに昭和53年には第8 次5ヵ年計画となってふくらみ、そして昭和58年には予算規模38兆円にのぼる第9次計画が決定された。

北海道の自動車道路が目に見えて改善され始めるのは昭和45年ころからである。砂利道の車道も次々と舗装され、道路標識や交通信号機などの整備も進んで、道路事情は目覚ましく改善された。

高速道路も昭和46年12月、翌年の1972年札幌冬季オリンピックを見越して千歳-北広島間に開通した。これが北海道縦貫高速道路の基礎となり、その後、昭和53 年には千歳-苫小牧東、昭和54年北広島-札幌南、昭和55年苫小牧東-苫小牧西、昭和58年には苫小牧-白老と伸び続けた。こうして都市間急行バスの活躍の舞台は整ってきた。

image

白老インター開通の翌日の12月15日、道南バス株式会社の室蘭-札幌ビジネス急行バスが出発進行した。同社は昭和30年代に同路線を運行していたが、国鉄の急行列車とは競争がむずかしく休止していた。高速道路を利用しての再開は、初め募集貸切の形をとり、1日1往復、運賃はコーヒー付き1,800 円であった。当時、国鉄は特急で3千円だったから、時間的にもほとんど変わらないビジネス急行バスは大好評で、とくに正月には予約が殺到して対応に追われたという。本州のバス業者も注目して視察に訪れるほどであった。

この結果、募集方式から定期路線に変わり、やがてそれまで休止していた中央バスも再開に踏み切って、道南バスと協議のうえ、それぞれ1日2往復、 1,700円で認可を得て、翌年4月から両社のデラックスバスが競って走ることになった。運賃が安く、必ず座れるとの好評は続き、ときには増発車を加えるなど、人気はいまも続いている。

その後も高速道路はモータリゼーションの進展と国の積極的な公共投資に支えられて年々延長され、北海道縦貫自動車道では昭和58年札幌-岩見沢、昭和60 年白老-登別東、札幌-札幌南間が開通し、平成2 年までに岩見沢-旭川鷹栖間、平成9年までに登別東-長万部間が開通した。北海道横断自動車道は昭和48 年小樽-札幌西(高速道に切り替え)平成4年札幌西-札幌ジャンクション、平成7年十勝清水-池田間が開通し、平成11年3月末現在、北海道の高速自動車道開通区間延長は408.1kmとなっている。

このほか平成10年に日高自動車道の苫小牧-沼の端西 4.Okm、深川留萌自動車道の深川ジャンクションー深川西4.4kmが開通しており、さらに多くの区間で高速道、自動車専用道路の工事が進められていることから、近い将来、道内の交通地図は大きく変化することが予想される。

→ページの先頭へ

延びる都市間高速バス

都市間バスのシステムは道路整備の進展、高速道路の延びとともにさらに発展し、都市と観光リゾート地、観光リゾート地同士を結ぶ新しいネットワークを描くようになる。車両は年々デラックスなものとなり、トイレ、ビデオ、マルチ音声つきのハイデッカー車などが登場した。3列独立シートにスリッパ、毛布付きとなれば、快適さはもう航空機と変わらない。 運行距離の長い長距離バスでは、無益な競争を避け、利害を調整して互いに協力関係を維持しながら、相互乗り入れ-共同運行という形態がとられた。こうして平成2年3月には札幌-帯広間に北海道中央バス、十勝バス、JR北海道バス、北都交通、北海道拓殖バス5社による都市間バス「ポテトライナー」が走った。

このあとも次々と新しい路線による新しい需要の開拓が続き、平成8年4月、札幌-紋別間に「流氷もんべつ号」が運行したことによって、ほぼ道内の都市間バスのネットワークは整備され、一部は地域と地域を結ぶ生活路線として住民の重要な足となっている。

利用者にとっても、円滑な共同運行はダイヤ上便利になり、また適切なサービス競争を伴って歓迎された。バスの機動性、親しみやすさが、新しくその機能をよく発揮したのが都市間、観光地間長距離バスであったといえよう。今日にいたるまで、連日、広大な北海道を網の日のように結んで走りながら、バスの役割と存在を雄弁に示すとともに、各社にとって今後乗合バスの期待がもてる数少ない経営上重要な部門となっている。(資料の高速長距離バス運行系統表参考)

→ページの先頭へ

鉄路の跡を引き継いで

バス路線の伸長の陰で軌道の廃止が進んでいた。昭和44(1969)年10月末、半世紀の歴史を持つ定山渓鉄道が廃止された。大正7(1918)年、蒸気機関車で開業、昭和4年に本道初の高速度電鉄に生まれ変わった定鉄は、温泉客と豊羽鉱山の鉱石を運び、戦後は真駒内の米軍基地への貨物輸送で活躍したが、昭和38年、国道230号線札幌-定山渓間が完全舗装されてからはバスへの比重が高まり、豊羽鉱山も全面的にトラック輸送に切り替え、さらに昭和42年、札幌市の地下鉄真駒内乗り入れ構想決定により、軌道からの撤退を決断せざるを得なかった。

昭和44年4月に開かれた定山渓鉄道株式会社臨時株主総会は、代行バス計画として「現在鉄道は1 日19往復、輸送人員はラッシュ時で約 1800人、閑散時で約 1200人、計3000人だが、代行バスは38往復で消化でき、沿線住民はかえって便利になる」との説明があって、50年に及ぶ鉄路の廃止を決め、バスが主力となることを認めたのであった。

image

軌道事業の悪化は国鉄の場合さらに深刻であった。ローカル線の不振と、トラックに押された貨物輸送の衰退などで、昭和39年から国鉄は全体で赤字になっていたが、昭和50年代初めころから赤字ローカル線問題が表面化した。昭和55年に国鉄再建法が成立し、輸送密度や代替交通機関の有無を基準に、存続と廃止の線引きがなされ、道内で1次、2次合わせて22線区、総延長1456.4kmが特定地方交通線として廃止対象となった。昭和58年には全国のトップを切って白糠線が廃止になったのをはじめ、地元が「日本一の赤字線」を逆手に売り出して存続を図った美幸線など8線区が昭和60年9月までに地域のバスに転換された。

昭和61年、ついに国鉄の分割民営化が決まり、翌年4月、115年の歴史に幕を下ろして新生JRが誕生した。JR北海道に継承された幌内、松前、歌志内線は昭和63年4月までにバスに置き換えられ、いわゆる「長大4線」も、第3セクター経営の「ちほく高原鉄道」として残った池北線を除き、標津線、名寄線、天北線は平成元年4月で鉄路を閉じた。さらに平成 7年9月には特定地方交通線とは別に深名線が廃止となり、ここではJR自体が代替バスを走らせることとなった。

鉄道廃止後の地域住民の足としてバスが代替輸送に当たっているが、過疎の進行により経営への負担が大きくなっている。道バス協会は地域の足を守るため、地方バス路線維持費補助制度を確立するよう、日本バス協会とともに中央、地方への運動を続けた。

→ページの先頭へ

<<第11章 新時代の労使関係を模索 第13章 モータリゼーションの明暗>>