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第13章 モータリゼーションの明暗

目次

不採算路線増大に補助金制度

道路整備の進行はバス業界にとって諸刃の剣だった。見通しのいい車道を走る大型バスを自家用乗用車、いわゆるマイカーが次々追い抜いて行く。かつて洗濯機、掃除機、白黒テレビが市民の三種の神器とされたが、昭和40年代に入って、それはカー、クーラー、カラーテレビ、いわゆる3Cに変わる。41年、乗用車、軽自動車の保有台数は1000万台を突破した。 45年、国内旅客輸送量で自動車が鉄道を抜いたが、モータリゼーションの大波は高まるばかりで、マイカーがバスを追い上げ始めた。初め乗用車は交通の不便な農村の方が普及率は高かったが、やがて都市にも急激に増加して、国民の生活様式は一変した。

このころから乗合バス収入の延びは年々鈍くなり、諸物価の高騰と人件費の増大により、全国的に不採算路線が増え始めた。昭和43年9月、北海道バス協会はバス白書を発表し、35%が赤字路線という実態を示し、バス事業危機突破対策要綱を決め、業界の結束を固めるとともに、関係方面にも強く訴えた。この年は開道100年を記念する北海道博覧会をはじめ、多くの大会、コンベンションが開かれた年であったが、乗合の運賃収入はわずか2%の伸びで、貸切の17%増でようやく支えたかたちであった。この年、不採算として10系統が休止、6系統が廃止された。

さらに本道の場合、モータリゼーションの異常な発達や全国一の過疎現象に加えて、地域の産業構造が大揺れしていた。かつて炭鉱景気にわいたヤマでは、昭和44年、新石炭政策の実施とともに閉山の動きが激化し、21鉱が閉山7千人を越える労務者が職場を失った。また、この年は水田作付け面積のピークで、このあと下り坂に転じて、農業は自由化におびやかされ、離農が広がる。いずれもが過疎現象を深め、乗客減をもたらした。

日本バス協会は全国の業者の声を結集し、公共交通維持のため運輸省に補助金制度を強く要請した。その結果、昭和41年度から離島バス整備補助制度が創設されて、合計11,850万円の補助が認められ、公的助成の道がようやく開けた。44年度には不採算路線に対し、燃料、車両補修費の名目で4,780万円、自治省からも同額の助成があり、地方バス路線維持のため補助制度が講じられることになった。

45年8月、道バス協会は臨時総会を開き、直接費をまかない得ない414線を不採算路線として発表し、このうち利用の少ない路線についてはやむなく休廃止もと決議して関係官庁に陳情した。車両購入費として1社200.6万円、路線維持費に4社1017.3万円の補助金が決まり、各社が個別に交渉して市町村からも助成が約7,270万円が支出された。こうして、国や地方公共団体の援助によって不採算路線が維持されるかたちがとられることになった。

バス事業を支える助成制度は「地方バス路線運行維持対策補助制度」と「バス利用促進等総合対策事業補助制度」がある。このうち、バス事業経営維持の根幹をなす「地方バス路線運行維持対策補助制度」について触れておきたい。

昭和44年、不採算路線に対する補助金が認められて以来、今日の「地方バス路線運行維持対策補助制度」として発足したのは47年であった。その後、「5 年ごとに制度改正が行われてきたが、平成5年2月、基本的には現行の補助制度の枠組みを維持しながらも、制度の大幅な改正を行うことが必要として「地方バス路線運行維持対策基本問題懇談会(座長・岡野行秀東京大学名誉教授)」が設置され、新補助制度の検討に入った。翌6年6月「地方バス路線補助制度のあり方」と題する報告が行われた。この中で注目すべき点としては、第2種生活路線について事業者の経営改善努力が不足、また、補助制度が存在するため経営責任が不明確といった批判もあることから、国民の理解を得て国からの助成を継続していくためには、事業者にいっそうの経営努力を求める方向で適切な制度改正を行うことが適切との考え方と、すでに時代に合わなくなった補助要件の見直しを行うことが適切との考え方が示されたことであった。

また、廃止路線代替バスについては、この形態での公共輸送の実施が全国的に定着してきたことから、市町村の自主性をより発揮して地域の活性化を図り、地方の負担のあり方についても、抜本的見直しを行うことが適切との考え方も示された。さらに、昭和47年の制度発足以来5年ごとの制度であったが、もっと長いものとすべきとの考え方から、制度の基本的な考え方については長期的かつ安定的なものとすることが適切との答申がなされたのであった。

この答申をうけて運輸省は、第二種生活路線補助について、これまで5年ごとの制度改正であったものを10年間の制度とした。また、経営改善努力の不足している事業者に対し、サッカーのイエローカードとも言うべき経営改善査定制度を取り入れて警告がなされることになり、このほか15万人以上の市街地については走行率による補助金カットの緩和などの措置が講じられることになった。

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軽油引取税アップに始まる助成制度

運輸事業振興助成交付金制度は、今日のバス事業の維持発展のために重要な役割を果たしてきているが、その発祥は、軽油引取税の大幅増税に端を発した。

国は、地方財源の充実を図る見地から昭和51年に、積極的な税制改正に取り組んだ。この税制改正は、自動車関係諸税についても全般的な見直しを伴うもので、その中で軽油引取税の税率は30%もの大幅な引き上げとなり、バス事業とトラック事業に大きな負担を強いるとして全国的な反対運動が展開された。

このようなことから、国は営業用バスおよびトラックについて、当面という期間限定をつけて、引き上げられた軽油引取税の130分の15を各都道府県の一般財源から、関係公益法人(都道府県バス協会)と関係地方公共団体の経営する公営企業に交付する「運輸事業振興助成交付金制度」を創設したのであった。これは、バス輸送コストの上昇抑制等を図るため、公共輸送機関の輸送力の確保、輸送サービスの改善、安全運行の確保を目的とした補助金として発足し位置づけられた。

以後、5年間ずつ延長されてきたが、特に平成10 年の制度存続はかってない厳しい状況に置かれた。この制度が創設されてから20年を経過したこともあり、税制改正の議論の場において財政構造改革会議での中間報告を理由に、交付金制度の廃止論が浮上してきたのであった。また、交付金の使途・意義に疑問を呈する動きもあり、運輸省は懸命の防衛に力を尽くした。しかし自民党税調や大蔵省、自治省等の抵抗は強く、危機に迫られた日本バス協会は全日本トラック協会および全国通運連盟と三者連絡協議会を設置し、これまでの交付金事業の成果等を取りまとめ、これを基に国会議員、自民党税調、関係省庁などに対し強力な要請行動を展開した。この結果、日本バス協会の融資事業の新規融資枠を廃止し、これを財源として、運輸省が推進するバス活性化総合対策補助制度に呼応するかたちで交付金中央事業の助成制度を発足することで一応の決着が図られた。また、地方バス協会においても従来の地方事業の見直しが求められた。

このように、運輸省を始め関係者の絶大な協力を得て認められた交付金制度の延長は、平成14年度(平成15年3月31日)までとなっている。北海道バス協会の運営は、会費収入と運輸事業振興励成交付金で折半されるかたちで成り立っている。道バス協会としては、まさに「運輸事業振興助成交付金制度」なしでは事業運営ができないほどに、この制度は重要な位置を占めており、その存廃は道バス協会はもちろんのこと、日本バス協会の死命をも制する重大事であり、恒久的な制度確立が強く望まれる現状となっている。

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かつて女性が支えたバスだった

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窮迫するバス事業の人件費抑制のための合理化要請、そして社会的な教育環境変化による金の卵・中卒者の補充難、この両面から推進されたのがワンマンバスヘの流れであった。

かつて「東京のバスガール」という歌が愛唱されたが、バスの女子乗務員は戦前から先進的な女性進出部門であった。路線バスは登場時から長くツーマンシステムがとられ、短い一時期、男性車掌もいたが、制服姿の女性車掌は花形職場であった。

50年に近い歴史を持つその任務は、単に乗客への案内、切符の販売・確認・回収にとどまらず、安全の確認、バスの誘導、運転者の補助、さらに車内清掃など、多岐にわたった。健康な心身と、豊かなサービス精神のうえに、知識と判断力、経験を要する専門職であった。中央バス五十年史から引用しよう。「当社にはピーク時の昭和41年ごろ、1500人もの女性車掌が活躍していた。中卒者が多く、白い襟に濃紺の制服、制帽姿の彼女たちは腰のベルトに革カバンを吊り下げ、両切りパンチを片手に『乗車券をお切らせ願います』と、揺れ動く車内を巧みにバランスをとりながら動き回って乗車券を発売したり、乗客を誘導整理した。一踏切で安全を確認し、バスを誘導するのも彼女たちの役目だったし、乗務の合間にラジエーターの水を補給したり、車体の清掃や窓ガラスふき、ボディーみがきも女子車掌の大きな仕事だった。とくに木炭バスの時代には、始発の1時間以上も前から出勤して準備にかかり、かまの掃除や、かまに木炭を入れて火をつけ、重い風車のハンドルを回してガスを発生させる仕事までやってのけた。-当時はセルモーター付きの車が少なく、クランクハンドルでエンジンを始動させたが、助手がいない場合、彼女たちがその仕事をやらなければならないこともあり、これは非力な彼女たちにとって大変な重労働だった」

道南バス七十年史からも引用したい。「心ない客にいやがらせをされたり、不正乗車を指摘して乱暴されたりすることもあった。それだけに、中学校を卒業したばかりの15歳から16歳の女子乗務員たちが、教育係や先輩の指導を守り、困難に耐え、込み合うバスの中で頬を紅潮させ緊張した声を張り上げ案内している姿や、汚れた車内を清掃している姿は、まことにりりしくいじらしいものであった。当社の路線バスの歴史を支えてきた女子乗務員のカは実に大きいとせねばならない。この女子乗務員も昭和40年に入ると次第に応募が減少し、45年度に向けては、70人の募集に対して応募はわずかに50名に満たず、ついに市内においては46年以降の採用を中止するにいたった。その後は高校卒のみを対象にガイドの養成に転じていったのであった」

当時、紅顔の新中卒者は“金の卵”と呼ばれてもてはやされ、本州の繊維工場などに集団就職した。沿岸バスでは車掌の補充要員が全く確保できなくなり、ワンマン化を推進せざるをえなかったという。全国統計で高校進学率が90%を越し、中卒就職率が 8%を割ったのは昭和49年であった。

再び中央バス五十年史から。「昭和47年4月採用を最後に、当社は女子車掌の新規採用を取りやめた。『発車オーライ』-あの、はちきれそうな女子車掌たちの声は、もう聞かれない」。

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道バス協会、ワンマン化推進へ

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北海道バス協会は企業合理化と車掌の要員確保の困難からワンマン化推進は必須と見て、近代化委員会のなかにワンマン部会を設けて調査研究を進め、対応策を確立するよう札幌陸運局に建言していた。陸運局は40年7月、「ワンマンバスの運用に関する基本方針」について同局の自動車運送協議会に諮問した。同協議会は二つの小委員会で1年余にわたる調査検討を行い、道バス協会の意見をも加味して、道路状況、車両構造などについて、多くの条件を明確にした詳細、長文の答申をした。その骨格の要旨は次のようなものであった。

  • 運転者について考慮すべき事項 (1)適性検査制度の検討=知能、健康、情動安定度、知覚運動機能について適性検査をし、適性をもつ者を乗務させる制度を確立する。(2)事業者の実施すべき事項=労働負担については安全性を相当見込み、運転時間、休憩時間等を定める際、超過勤務を命じる際にはこの点を十分に考慮すること。運転者の健康管理に十分配慮するとともに、運転の慣れによって生ずる不感症的な事故を防止するため、再教育をしばしば行うこと。緊張を緩和させる施設として休憩施設等を整備すること。
  • 冬期間の運行について=積雪時のワンマンバス運行系統の指定は、除雪により道路幅員が7メートル以上確保できなければならない。ただし7メートル未満であっても、6メートル以上あって、安全な通行が認められるものは指定できる。乗降ロステップは暖房装置などを取り付け、運転中に氷結しないようにしなければならない。
  • 乗車券はターミナル方式が望ましいが、信用扱い方式、整理券方式にも慎重に検討すること。バス事業者は積雪のため乗降時に発生する危険を考慮し、道路管理者に協力して停留所付近の除雪を積極的に実施すること。また、サービス確保のためテープレコーダー等による案内、両替・つり銭装置を設置すること。
  • 道路管理者はワンマンバスの運行系統については、冬期間の除雪に万全をつくすよう要望する。
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早かった札幌市、東邦交通の導入

昭和26年、大阪市営バスが今里一阿部野間に走らせたのが日本初の乗合ワンマンバスとされるが、北海道で導入が始まったのは昭和36年、札幌市交通局が初めて一部路線で実施した。東邦交通(現・くしろバス)も37年に10台を購入し、11月17日から米町線で運行した。市内運賃は均一制で20円であった。39 年には貝塚線など2路線もワンマン化され、録音テープを使った案内システムが導入された。

北海道中央バスも昭和38年4月から小樽市内線の終発便を30分繰り下げて午後10時30分としたのを機会に、午後10時以降は女子車掌を乗務させずにワンマンバスとして運行した。女子の深夜勤務には厳しい制約があり、一方、終発便を繰り下げてほしいという利用者の声も強く、これらを両立させるためのワンマン化だった。

こうした試行的な実施で安全性が確認されたことから、各社は道路条件の整備された路線から次々とワンマン化に踏み切った。道路の整備が進み、車掌が誘導しなければならない危険な所が少なくなったことに加えて、乗務員に託された任務の繁雑さをできるだけ省いて安全運転に専念できるよう、さまざまな機器が開発された。案内放送装置、整理券発行機、自動両替機付き運賃箱、行き先標示付きデジタル運賃標示機などで、これらの導入で乗務員の負担は軽減されつつあった。

各社はそれぞれ積極的に、しかし慎重にワンマンバス導入の手続きを進めた。これまでは運転に専念して客と直接対話することが少なく、技術者タイプの多い運転者にとって、ワンマン化は精神的にも大きな負担であった。特に整備が遅れて道路が狭く、除雪態勢が不十分な地域をもつ会社では労使の話し合いは難航した。一方で、過疎地帯の運行を守るためにはワンマン化が急務との判断にも迫られ、道バス協会は道路拡幅の陳情を関係官庁に繰り返し行った。

道バス協会の調べでは、ワンマン化実施は昭和43 年度は5社96系統、45年度には8社167系統261両と年々増加したが、ようやく全道的にワンマン制への切り替えが一段落したのは昭和50年代をしばらく過ぎてからであった。東邦交通の年表には「昭和53年、新型バス13両を購入(1両900万円)。エアドライヤー、パワーステアリング、ハンドリング。これで160 両全部がワンマンカーに」とある。

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貸切ワンマン化も進む

一方、貸切ワンマンバスについても、昭和47年7 月、札幌陸運局通達で指定事務取扱要領、指定基準が明確化され、翌48年には早くも5社97経路で指定を受け、運行されていた。さらにバスガイドの確保が年々深刻化して新たな問題になっていた。昭和49年、北海道観光シーズシの繁忙期、ガイド不足から予約に応じ切れず、断らざるをえないことさえあった。日本バス協会は、今後貸切バスのあるべき姿はワンマン運行とともにガイドレスを原則とし、特に旅客の要請のあるときには専門ガイドを添乗させ、ガイド料金は別途とすべきだとの考え方に立ち、バスツアーガイド認定書付与規程を決め、実施をめざした。また道バス協会は、保安対策委員会と貸切バス運営委員会合同で小委員会を設置し、札幌陸運局と協議しながら、貸切ワンマンバスの経路一括指定について検討を進めた。これは貸切ワンマン指定の申請にあたり、運行系統設定のたびに多くの関係書類の添付を要する点の改善をめざしたもので、この結果、昭和56年1月に至り、陸運局長通達が出されて、大幅に手続きの簡素化が図られた。

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白バス横行に強く警告

戦後の一時、いわゆる白タクが問題になったことがあったが、さらに大規模な自家用車の逸脱行為、いわゆる白バスがめだち始めたのは昭和50年ころからであった。自家用車の普及によって会社、事業所、地方自治体などに増えだしたマイクロバスなどを用いた逸脱行為に、運転手付きレンタバスや自家用マイクロバスによる営業類似行為も加わり、貸切バス事業者の経営に影響を与え始めていた。道バス協会はこれらの逸脱、違法行為に対して、広く利用者にもその排除を訴えるため、テレビ、ラジオ、新聞などによるキャンペーン、広報活動を昭和52年から展開した。また、大口需要者に対しては文書で要請を行い、注意を喚起した。さらに55年7 月からは会員からの違法行為確認の申告制度を実施するとともに、道内各地区の陸運事務所、警察署におもむいて、取り締まりを強く要望した。具体的には、観光シーズン中に新千歳空港内で見られる営業類似行為の実態調査をはじめ、道および各地区バス協会の年度計画によるパトロールの実施と、全従業員の目と耳による情報収集を行って、資料を当局に提出した。こうした活動から、司法による摘発も進んで、違法行為はやや陰をひそめるかのように見えるが、表面化しないものもいぜんあると見られ、規制緩和政策による新規参入の増加が予想されることから、利用者の安全確保のためにも、業界、関係官庁を挙げての絶え間ない啓発活動や摘発等が必要とされている。

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