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第9章 統合から新しい再編成へく

目次

私鉄バス再開と省営バスの拡張

バス事業の再建計画は、7統合民営会社と2公営企業体を中心に進められたが、昭和22年ごろから、戦時中にバスの運行をやめて車両を統合会社に譲渡してきた地方鉄道軌道会社の復活を望む動きがあり、北海道旅客輸送協会はこれには支援を惜しまなかった。

まず旭川市街軌道株式会社が代用燃料車で市内循環線の運行を再開した。翌23年には定山渓鉄道株式会社が札幌駅前一定山渓間に、また士別軌道株式会社が士別駅前一奥士別間に、24年には早来鉄道株式会社が早来一振老間にいずれも代燃車で運行を再開した。これらは鉄道または軌道に併行していて、かつて鉄道軌道の護路線として兼営していたもので、いわば会社の生命線でもあった。

このころ、経済復興を旗印に省営バスの進出が全国でめだち、民営業者側の神経を刺激していた。すでに昭和21年には中央で相次いで4回もの業者大会が開かれ、省営バス反対が強い言葉で決議される動きがあった。戦時統合に続く敗戦の混乱で、立ち上がるカを失っている民間業者の隙をうかがって、省営バスが国のカで拡張を図ることは許されないとの危機感からであった。

それでも省営バスの路線拡充は続き、本道でも昭和21年の日勝線(庶野一広尾)に始まり、22年には長広線(札幌一中央長沼、北広島一恵庭)、23年には空知線、江別線、羊蹄線、十勝線、北十勝線、南十勝線、美瑛線、当麻線と、総延長495キロに及ぶ営業が始まっていた。

もちろん、これらの背景には地域住民からの強い要望があったに違いないが、国の実力をもってして拡張を図るなら、民間にも相応の助成策をとの声が強かった。昭和23年には問題が占領軍に持ち込まれ、連合軍民間運輸局道路都市交通部長名で「本問題の徹底的解決を見るまでは、既設の国営バスまたはトラック業務を拡張し、または国営自動車の線を新設する計画は一切停止することが望ましい」とのお触れが出されたこともあった。

こうした経過もあり、国鉄バス(昭和24年、国鉄が分離)の拡張は昭和24年には札樽線、長広線、日勝線の延長に止まった。しかし、国鉄バスの動きは民営業者を強く刺激し、それがまた地方鉄道軌道業者をいらだたせ、その結果、さきの鉄道軌道線の併行バス路線の再開となり、さらに既存の路線へ新たに進出しようとする会社も出てきた。北海道旅客輸送協会は、戦中戦後の資材、物資調達という任務に続いて、統合時代の枠を再編成しようとする新しい時代に向けての動きの調整役を果たすことが求められた。

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札樽線への民営進出めぐる動き

こうした省営・国鉄バスの動きに対し、民営業者側も手をこまねいていたのではなかった。戦後復興のエネルギー確保のため、空知の炭鉱地帯は活況を呈していたが、歌志内線(赤平一歌志内一上砂川)の免許獲得をめぐっては、省営バスと北海道中央乗合自動車株式会社との間で激しい競争が繰り広げられ、昭和23年、後者が獲得に成功し、同社は空知の炭鉱地帯への路線網拡充に重要な拠点を得た。

また、昭和9年に初めて本道で省営バスが走った札幌一小樽線は独占が続き、民間の割り込みは困難と見られていた。23年ごろ、省営バスは木炭車で運行していたが、道路状況が悪いため、列車の片道1 時間に対し2時間半もかかり、運賃は列車の5割高とあって、利用者は少なかった。このため民営バスの進出を望む声が高まり、昭和23年8月、定山渓鉄道株式会社が免許申請を出し、翌月には北海道中央乗合自動車株式会社も続いた。しかし、当時は燃料、資材が統制下にあったため時期尚早として24年、却下となった。

その後も小樽商工会議所などから民営待望の声は続き、年末には再び定山渓鉄道と北海道中央バス株式会社(この年に改称)から申請が出された。国鉄バス側は翌25年の雪解けから大型新車を投入して運行時間を1時間半に短縮、運行回数も倍増させたところ、乗客は増加の一途をたどり、この需要から見て必ずしも1路線1営業の制限は必要ないことを証明することとなった。

札幌陸運局(この年、札幌道路運送監理事務所が移行)は中央バス側から運行回数や料金など無用の競争はしないこと、途中の乗降は少なくして急行バスとすることなどの考えを確認のうえ、国鉄側の了解取り付けに努め、25年12月、中央バスに免許が下った。翌26年4月から札樽線に6往復の急行中央バスが走り、ここにダブルトラッキングが実現したのであった。

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地方自治体による公営バス盛ん

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戦後のバス事業をめぐるもうひとつの特徴的な動きは、地方公共団体の路線免許申請であった。昭和24 年9月に全国戦災都市連盟(会長・姫路市長)は「市営バス事業の市内路線への運行の自由」を求める要望書を自動車局に提出したが、それには「市民公共の福祉と利便を目的とする市内バス事業が一営利業者の独占にまかせ、しかも市内重要路線(既経営線)への割り込みが許されないため、市経営の本事業の市内全般にわたる統一的経営が中断せられ、経営の合理化を叫びつつ不利益な運営を続けつつあることは実に時代の矛盾と言うべく、悪法の甚だしきものであることを確認いたす次第であります」との激しい調子の主張さえ見られた。

この背景には、民主化政策による地方自治意識の高揚とともに、主要な市内交通を自力で経営したいという意図に加えて、財源確保のため収益性が望まれる事業として着目された事情があっただろう。こうして一時期、全国的に市営バスの誕生が続いた。道内では苫小牧市が昭和25年に免許を得て、26年3 月から運行した。

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スクールバスの免許も続く

自治体の公営バスでは、義務教育の六三制実施にともない、地方自治体がその財政面から学校を集中的に建設し、通学の不便を補うためスクールバスを計画して免許されたものに、24年の下湧別村(現・湧別町)と25年の穂別村とがあった。

いずれも民間業者との調整を要する案件であったがこうした場合、よくいわれることは、既存のバス業者の輸送能力の有無と、サービスの実態、その改善の余地などであった。北海道旅客輸送協会は、公共的使命の重視とともに採算性を見極めて、無理な事業拡張は控えるようとの方針で指導を行った。

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室蘭市営バス計画で揺れる

このころ室蘭で市営バス計画案が持ち上がり、3 年に及んで市議会を巻き込む動きがあった。発端は昭和26年、朝鮮戦争勃発でインフレが高進し、北海道バス協会加盟各社の多くが6月18日にバス料金値上げ認可を得たが、室蘭地方労働組合協議会(室蘭地協)は反対運動に乗り出し、市議会に「値上げ反対、市営バス計画の実施」を陳情した。市議会はまず値上げ反対の議決をし、市営バス設置特別委員会を設けた。値上げについてはその後の協議で了解に達し、 8月14日から実施となったが、特別委は「室蘭の地理、人口分布から見て市営バスは実施すべきであり、独立採算として十分償う」との結論を打ち出すに至った。

さらに翌27年2月、室蘭市は道南バス株式会社(同年、道南乗合株式会社から改称)に対し、文書で「事業の一切を譲渡する意志があるか」と打診してきた。道南バス取締役会は6月、「事業譲渡はしない」と文書で正式回答した。

これに対し、室蘭市は昭和27年10月13日付で、市内8路線25.3kmに免許申請を提出した。そのほとんどが道南バス路線と競合し、運賃も大同小異であった。札幌陸運局は28年9月、札幌でこの問題で公聴会を開いた。

注目の公聴会で、室蘭市側は古道直治市議会議長、地協代表ら10名が免許に賛成の意見を述べたのに対し、道南バス側は徳中祐満社長、伊藤琢磨道バス協会会長をはじめ道南バス労組書記長ら10名が反対意見を展開した。主な反対意見は次のようなものであった。

「申請路線は道南バス路線と競合し、既存路線網で十分である。道南バスは安全確保はじめ輸送に最善の努力を行っている。もし市営バスが実現すれば供給過剰となり、過当競争から企業経営に困難をもたらす。道南バスは大正14年以来30年余にわたって事業を経営し、市内のほか5支庁管内で産業、観光など開発のため不採算路線を多く抱えながらも使命達成に努力してきた。市内路線の営業が低下すれば当然の結果として地方路線の維持も困難になるであろう」

公聴会のあとも室蘭市側は促進特別委員会を設け、各方面に免許促進の陳情行動を続けた。昭和2 9年2月、石塚久司札幌陸運局長は室蘭市を訪れ、市営バス促進特別委員会に臨んで申請却下の通知と運輸省自動車局長の通達を伝えた。その内容は「検討の結果、既存の道南バスのほかに新しく市の申請を免許することは適切でない、という理由で処分したから了知されたい。なお、室蘭市における輸送事情は年々著しく増加している。道南バスはこの地域における既存業者として、今後いっそう輸送情勢の推移をつかみ適切円満な運営にあたらなければならない。札幌運輸局長においても同社の合理的運営について特段の配慮をされたい」というものであった。

室蘭市議会は「事由は了承できないが、免許制である以上、通達内容を尊重し、道南バスの公共性充実に期待する」との意見書を可決して、この間題にはようやく終止符が打たれた。3年に及んだ「幻の室蘭市営バス」問題は、地方自治体の公営バス運営ブームを背景に、値上げ処理をきっかけとした不満が市議会をも動かして、既存業者に対し不信任を出したものであり、公共事業と地域住民の関係について留意すべき教訓を残した。

その後、昭和38年のバス料金値上げに際しても、室蘭地協が「値上げ反対、市営バス設置」を陳情し、市議会が再び特別委を設けて検討に入ったものの、昭和42年に至って「市営バスを設置しても5年間の累積赤字は2億円を上回ると見られ、現段階では至難である」との結論に達して断念するという経緯があった。

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路線の延長、新規申請増える

民営、公営を含めて、バス路線の延長、新規の申請はこうして年々増加した。昭和23年から27年までに、全道バス路線の延長は民営が261、鉄道軌道が57、市町村が39、国鉄が27、計384に達している。また、同時期に新規バス路線の申請は民営5、鉄道軌道8、市町村9、計22を数えた。

すでに挙げた公営を除いて、新規免許を得たものには、昭和23年の美唄鉄道株式会社、寿都鉄道株式会社、24年の北紋乗合自動車株式会社、夕張乗合自動車株式会社、25年の根室交通株式会社、斜里バス株式会社、26年のニセコ観光自動車株式会社、27年の夕張鉄道株式会社などがあった。

こうしたバス路線経営免許申請の事由には、他業者に関係のない単なる事業の拡張または運行路線の変更にともなうもののほかに、他業者と対抗のためのもの、あるいは利権として将来に備えようとするものなどがあった。そして、免許獲得をめぐって、とくに反対のない平穏なものから、沿線関係の住民運動が国会議員を巻き込んで政治問題に発展したものまであって、年を追って複雑化する傾向が見られた。そのため、申請事案をめぐって紛糾して、その解決に3年から5年がかりというものも出てきて、関係官庁をてこずらせたこともあった。

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統合会社の分割続く

バス業界の戦時統合は戦争遂行の大号令のもとに行われたが、その大きな状況が失われれば、結合を保つ磁力が弱まるのは当然であった。自分の育てた企業を再び自分の手で運営したいという意識は根強かったが、戦後の資材難、燃料難などは時期尚早を思わせたし、不当な競争を招く恐れもあって、昭和20 年末には自動車局長名で統合の解体は原則として認めないことが指示されていた。

資材、燃料の供給に明るさの増した昭和24年にトラック業界で始まった統合会社の再分割の動きは、 26年からバス業界にも波及して来た。

まず同年6月、帯広乗合自動車株式会社が北海道バス協会に話を持ち込んで来た。同社の事業区域は十勝支庁一円で、その路線網は帯広市内を中心としているが、広大に過ぎて経営上の連絡統一に不便であり、また利用者に対するサービスにも公平を欠くきらいがあり、インフレの高進、労働攻勢の激化で経営の困難が予想されるので、適正規模の合理的運営のため3分割したいというものであった。同社は十勝地区のバス業者10名を統合して発足したもので、(第4章後段の地区別統合会社一覧参照)その経営には当初から二元的な運営の困難な事情があった。

この結果、昭和26年12月の認可で、帯広乗合自動車株式会社は同社のほか、北海道拓殖鉄道株式会社、道東バス株式会社に3分割することが決まった。路線の分割状況は、帯広市の西北方鹿追、新得方面は元来、拓殖鉄道の護路線であったのでこれを譲渡し、東北方止若、池田、足寄方面はこれらの地点を結ぶ幹線と連絡支線を道東バスが持ち、残りの路線を親会社が一元的に経営するもので、同地区の旅客交通事情に即した形であった。分割の概要は次の通り。

業者名(代表者) 資本金 車両 路線延長
帯広乗合(野村文吉) 2,220,500円 25台 408.6km
拓殖鉄道(中木伊三郎) 564,000円 7台 111.7km
道東バス(中島国男) 715,500円 13台 164.4km

ついで分割が提起されたのは北見バス株式会社であった。その路線網は北見市を中心とする中央および西部地区と、網走市および斜里町を中心とする東部地区に二分されて、もともと地域の成り立ちや産業構造の違いもあって網走側には独立の機運が強く、将来の独立についてすでに北見バス側の了承を得て、昭和24年11月1日、網走営業所を開設して事実上分離の形がとられた。

網走バスの記録によると、市内2路線と常呂線をフォード1937年式51人乗りとニツサン1947年式48人乗りの2台で運行し、当日1日の乗車人員は300人、収入3,000円とある。翌25年にはさらにいすゞディーゼル車1948年式51人乗りとニツサン・ガソリン車 1948年式48人乗りの2両を購入したが、この時は道内バス業者の初の試みとして、東京一網走間の完全陸送を行った。所要日数6日、費用は6万円であった。

譲渡認可は昭和27年2月で、概要次の通り。

業者名(代表者) 資本金 車両 路線延長
北見バス(多田倍三) 1,500万円 47台 550.6km
網走バス(横道四郎) 1,000万円 12台 120.5km

次に提起されたのは道北乗合自動車株式会社であった。同社の事業地域は全道一広大で、統一的な運営は困難とされ、サービス面でも公平を欠く点があり、分割は時間の問題とされていた。道バス協会は分割案の作成に当たっては利用者の利便を妨げないよう考慮するとともに、企業経営の可能性を検討して路線の配分、営業所の帰属を協議して、旭川市から士別、名寄を結ぶ路線と、旭川市郊外の路線は道北乗合自動車株式会社に残し、旭川市から美瑛、富良野を結ぶ路線は旭川電気軌道株式会社に、日本海沿岸の路線は沿岸バス株式会社に、またオホーツク海沿岸の路線は宗谷バス株式会社に、それぞれ分割譲渡が決まり、27年6月に認可となった。概要次の通り。

業者名(代表者) 資本金 車両 路線延長
道北乗合(金森勝二) 1,400万円 30台 535.2km
旭川電気軌道(豊島卯三郎) 900万円 13台 223.8km
沿岸バス(瀧川信明) 800万円 20台 307.0km
宗谷バス(河内羌) 700万円 14台 237.0km

第4番目に分割が提起されたのは東邦交通株式会社であった。統合会社としては取締役社長を釧路側と阿寒側から交互に勤めるなど、円満で一元的な経営がなされていたが、拡張期となって、釧路市内路線と、阿寒地区の観光路線、標津地区の開拓路線と、運営形態の違いが明確になり、加えて標茶、厚岸地区に国鉄バス導入の動きも出てきたため、2分割はやむなしとされ、昭和28年12月に認可となった。概要次の通り。

業者名(代表者) 資本金 車両 路線延長
東邦交通(舘徳蔵) 928万円 46台 130.0km
阿寒バス(伊藤鉄次郎) 375万円 38台 528.6km

 

その後、新しく発足した道北乗合株式会社に関して、名寄、士別地区の地元住民も加えて再分割の動きが出て、昭和30年1月、次のように認可が出された。

業者名(代表者) 資本金 車両 路線延長
道北乗合(金森勝二) 700万円 52台 416.5km
名士バス(武田忠兵衛) 350万円 16台 391.7km

 

こうして、昭和18年から19年にかけ業界を揺り動かして発足した民営バス7社体制は、戦後数年をもって幕を引き、大枠は残しながらも、新しい社会形態に即応する事業体系への再編成を模索する時代に移る。

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明るいバスにする運動

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昭和25年春、全道の乗合バス業者は20を数え、車両数は700台を突破、免許路線延長は5,000kmに達して終戦前の水準を超え、加えて大型貸切事業も一斉に再開されて復興気分はみなぎっていた。この機会にバス経営者、従業員一同が意欲をいっそう高め、サービス向上運動をと企画されたのが「明るいバスにする運動」であった。

この年はたまたま日本乗合自動車協会役員会が8 月22日に札幌で開かれたので、「明るいバスにする運動」は8月16日から同月末日まで展開された。事業計画の完全遂行、運輸規程の順守、車両の整備等の基本的事項から、接客態度の明朗化、勤労意欲の高揚などの実施事項を掲げて、各陸運事務所管内単位で車掌業務競技会や従業員懇談会が開かれた。また、全道的に「花バス」を運行するなど工夫をこらして展開され、日乗協の佐藤栄作会長はじめ役員一行に本道業界の復興ぶりをあざやかに披露した。

各地でバス車掌競技会を開いたことから、全道段階の競技会をとの要望が起こり、これがきっかけで全道バス車掌コンクールが11月8日、札幌で開かれた。種目は、路線業務を主体とする乗合旅客接遇競技(第1部)と、案内業務を主体とする観光案内競技(第2部)に分け、第1部は17名、第2部は8名の参加があり、道庁周辺の道路を会場にしてバスを運行し、それぞれ車内実演に加えて筆記試問も行なわれた。これが全道バスガイドコンクールの始まりとなった。

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翌27年からはバス運転手の技術向上をめざして「全道バス運転競技会」も開くことになり、10月20日、札幌・円山公園坂下グラウンドを会場に行われた。この競技は学科試問、仕業点検、応用操縦、街路運転の4種目で、出場者11名の参加をえて、予想以上に優秀な成績をおさめた。

こうした本道の活発な動きが刺激となって、日乗協は昭和26年から全国バスガイドコンクールを、27 年から全国バス運転者競技会中央大会を年中行事として毎年実施するようになり、道内の競技会は予選を兼ねることになった。 全国バスガイドコンクールには道内各社から毎年参加し、第2回第2部優勝の菊地ハル子(中央バス)第3回同優勝の金田玲子(同)を始めとして、35年、第10回で一応終了するまで、毎年のように上位入賞して気を吐くとともに研究意欲を刺激してガイド技術の向上を促した。

このコンクールが、昭和30年代なかば、バス事業の労使関係が厳しさを加えるころと前後して、第10 回大会を最後に中止のやむなきに至ったのは、旅行熱が年々高まり、バスガイドが女性の花形の職業として、技能を競う唯一の場であっだけに惜しむ声が強い。わずかに平成6年9月、道バス協会の「バスの日」記念行事の一環としてガイドスピーチコンテストが行われ、多くの聴衆を集めて往時をしのんだ。

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バス創業40年を盛大に祝う

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昭和28年は日本でのバス創業50周年に当たり、日本乗合自動車協会は5月14日から3日間、「バスまつり」として式典、行事を繰り広げたが、北海道ではちょうどこの年がバス創業40年の記念すべき年でもあった。このため道バス協会は9月に式典、イベントを盛大に展開した。記念式典は9月17日、札幌グランドホテルで開かれ、中央から運輸省自動車局中村豊局長、日本乗合自動車協会伊能繁次郎会長、地元からは札幌陸運局石塚久司局長ら各方面からの出席を得て参加者は約200名に達した。 道バス協会伊藤琢磨会長は、式辞でバス創業以来の歴史を概括したあと「戦後の復興はまずバスからといっても過言でないほどに異状の躍進ぶりを見せてまいりました。かくて免許路線数537、その延長 7,821キロ余、自動車数1,048台におよび、業者一同一致して本来の使命達成に邁進しているのが現在の姿であります。今や日本のホープ北海道は最近の目覚ましい開発の推進により日毎に輸送量は増大し、バスの重要性は広く認識されるに至り、真に心強く存ずる次第であります」と現状と任務を誇り高く集約した。

当日はバス事業創設者の故大津滝三郎の遺族がはるばる根室から出席したほか、初期の功労者射羽定次郎が元気な姿を見せて旧知との歓談を喜び、また多くの功労者、永年勤続者、特別表彰者とともに顕彰の栄を受けた。(以下に伊藤会長の式辞)

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北海道バス創業40年記念式典での伊藤会長の式辞

本日、この北海道バス協会創業40周年の記念式に当りまして御多忙の折柄にもかかわらず、遠路はるばる自動車局長ならびに日乗協会長はじめ来賓各位のご臨席を仰ぎ、また全道から多数関係者のご参会をえましてかくも盛大裡に挙行することをえましたことは、まことに感激にたえないところでありまして、衷心から深厚なる謝意と敬意を表する次第であります。本年5月、東京におきまして全国のバス創業 50周年の式典が催され、業界に一エポックを画したのでありましたが、開拓の歴史も浅い本道におきましてもそれより僅か11年遅れの大正3年に、根室・厚岸間にはじめてバスの運行を見たのでありまして、今からちょうど40年の昔になるわけであります。爾来幾多の紆余曲折を経て、今日の盛運を迎えたのでありまして、この40年を回顧いたします時、温故知新という言葉の通り、過去先人の労苦を将来の戒めとして、飛躍向上の基盤としなければならないと存じます。今過去を概括いたしますと、大体戦前・戦時・戦後と時代を分つことができ、さらに戦前を二分して大正の末期までは創業普及の時代と考え、昭和に入って支那事変勃発までを混乱から統合の時代と二期に分ち、都合四つの時代に大別するのが適当であろうと考えます。第一の創業時代は、第一次欧州大戦後の好況の波に乗りまして順調な発達過程をたどり、未だ鉄道の補助的交通の立場ではありましたが、著しい普及発達を見たのであります。ところが第二期の昭和時代に入りますと、世界的不況の襲来によって、バス業界は小規模な業者が乱立して、やたらにしのぎを削る趨勢となったのであります。昭和5年1月、北海道バス懇和会が生まれましたころは、百余の業者があっても十余名しか加入するものがないという状況でありましたが、同年懇和会が日本乗合自動車協会に加盟いたしまして、その北海道支部となりましてからは、おいおい団体活動の必要性が認識されるようになって参りました。しかしバス事業は、昭和7年には業者数実に164の多きを数えながら、その使用車両は 500台にも達しないというのが実績でありました。越えて昭和8年には自動車交通事業法の実施となり、漸次事業の整理統合が行なわれるとともに、無用の摩擦を避けて事業の基礎を確立しようとする気運が濃厚になってきました。

ところが好事魔多しの讐の通り、昭和12年7月、支那事変の勃発とともに、悲運の第三期がはじまるわけであります。戦争資源とのからみ合いから自動車燃料の消費規制、代燃車への転換、観光バスの運行停止、資材の割り当て配給が年と共に不如意の度が加わり、ついに太平洋戦争に突入してからは、いわゆる総力戦体勢の観点からいよいよ強制的大統合が考えられ、昭和18、19年には99の民営バス業者は7つの会社に、そして2つの公営業者と併せて9つの業者となり、19年には指令一本で決戦非常措置を余儀なくされた結果、全道にわずか93路線、2,163kmの最少限重点運行というさんたんたる運営態勢に陥ったのであります。しかも戦況は日々に不利となり、ついで原爆の洗礼を受けて敗戦の終局を結んだのであります。

そして戦後の第4期となるのでありますが、窮乏が久しかっただけに、燃料・タイヤなどの不足は勿論として、車両の老朽化には急速整備の途もなく、輸送事情の著しいひつ追にもかかわらず業者一同は拱手傍観のほかなく、虚脱空白の中に年余を過したのであります。しかし間もなく生気を取りもどした業者一同の燃えるような熱意により再建復興の計画が推進され、旺盛な意欲を振い起して、現行路線の増強、休止路線の再開、新路線の開拓と必死の努力が傾注され、哀れをとどめた車体も漸次その面目を新たにして、さつ爽として新興にあえぐ街を疾駆するようになり、戦後の復興はまずバスからといっても過言でないほどに、異状の躍進ぶりを見せてまいりました。かくて免許路線数537、その延長7,821km余、自動車数1,048台におよび、業者一同一致して本来の使命達成に遇進しているのが現在の姿であります。

この40年間、業者のなめた苦難のかずかずは、必ずや将来の尊い指針となるでありましよう。この間にあって業界の指導誘掖に任ぜられた方がたおよび縁の下の力持ちとなって、黙々と現場に働いて下さった多くの方がたの功績は、全く筆舌に尽し得ないほど偉大なものがありまして、この際大いにこれを顕彰すると同時に、感謝の誠を捧げたいと存じます。今や日本のホープ北海道は、最近の目覚ましい開発の推進により日毎に輸送量は増大し、バスの重要性は広く認識されるに至り、関係者一同業務の刷新に腐心されつつも意気いよいよさかんな実情を感得いたしまして、真に心強く存ずるしだいであります。この秋に当たり、この記念式を契機としてわれわれ一同は、将来の方途に再検討を加え、想いを新たにして、さらに一段の飛躍を試み、交通事業を通じて日本再建の一翼を担い、平和日本の繁栄に貢献せんとする念願を固めるものであります。

最後に関係業者および従業員一同を一体とせるバス業界の強固な団結と、その指導育成に任ぜられる関係各位の積極的なご援助とを期待いたしまして、式辞といたします。

昭和28年9月27日

北海道バス協会会長伊藤琢磨

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東急資本の導入進む

バス会社戦時統合の再分割が進んだ昭和30年代、国内運輸業界でも最有力の東京急行電鉄株式会社が北海道に進出し、道内バス業界の注目を集めた。

同社は昭和32年に定山渓鉄道株式会社、函館バス株式会社に資本参加したのを手始めに、その後も宗谷バス株式会社、北見バス株式会社、斜里バス株式会社、網走交通株式会社、北紋バス株式会社にも資本を投入、また早来運輸(現あつまバス)株式会社、美鉄バス株式会社を系列化して事業を拡大し、とくに道東北エリアに大きな地位を占めた。関連事業として不動産、観光、流通部門などにも業務を広げ、各業界に大きな刺激を与えている。

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道バス協会事務所の建設

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北海道バス懇和会に始まったバス事業者団体は時代とともに組織形態と名称を変え、北海道バス協会となって久しかったが、事務所は昭和14年以来、札幌市北3条西7丁目に置いていた。北海道庁の西門に近く便利だったが、明治の建物であったから、老朽化と、会員の増加に伴う事務局の増員もあり、手狭に悩んでいた。昭和38年、地主の水産団体がビルを新築するのを機会に新築移転を決め、北1条西19 丁目の一角が選ばれた。久米建設事務所が設計、北炭建設株式会社の施工により、建築費1,265.5万円で39年4月に着工し、8月31日、総面積358.37平方メートル、2階建ての堂々たる建物が完工し、道バス協会は初めて自前の事務所を持った。

この年はちょうど北海道のバス創業50年に当たる年であったから、9月1日にはこれを併せて盛大な新築落成式典が祝われたのであった。

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道バス協会・研修センターの新築

そのときから約30年、平成4年10月に、北海道バ ス協会が事務所と、懸案の研修センターの竣工を祝 うことができたのは、先輩の卓見と会員の堅い結集 の成果であった。協会は昭和55年度から、当時の金 森勝二会長の提案で、運輸事業交付金などを元に、 研修センターの建設をめざして基金の積み立てを始 めていた。高金利の時代であったことが幸いして、 平成3年3月にはこれが3億438万円に達していた。

加藤会長らがこの機運をとらえ、平成3年度の定 時総会はいよいよ建設に着手することを決定した。 建設特別委員会が設けられ、設計は北海道日建設計 が担当し、競争入札で3億7080万円で岩田建設株式 会社が決定、11月7日に起工し、翌4年10月、鉄筋 コンクリート造り、地下1階地上4階、延べ床面積 1,293.023平方メートル、シックな印象のビルが、 札幌市の動脈に近い北1条西19丁目に誕生し、11月 20日には札幌・京王プラザホテルで盛大な落成祝賀 会が開かれたのであった。

いまも日本バス協会などの関係者が「研修の殿堂」 と呼んで威容に驚き、北海道のバス事業者の結束に 感嘆するのは晴れがましいことである。

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大型貸切事業の再開、復活

 戦時中、活動をまったく停止されていた大型貸切 運送事業が、ようやく復活の動きを示したのは昭和 23年ころからであった。

もともと大型自動車旅客筆切運送事業は主として 兼業として免許され、免許のない業者も本来の事業 に支障のない範囲で、その予備車を流用して臨時に 運送できることが認められていた。だから車両に余 裕のある多くのバス業者は大型貸切事業の免許を持 っていたが、昭和12年には石油の節約のため不定期 遊覧事業とともに必要な事業のみに制限された。14 年、車両の代燃化を強く要請され、15年からは特定 貸切を除いて運休状態となっていた。18年のバス事 業の大統合に際しては、この事業はほとんど問題に されず、営業権はもちろん譲渡の手続きさえ行われ なかった。

だから戦中戦後を通じて貸切事業を継続できたの は、旭川市で旧軍関係の団体輸送を行っていた近藤 清一(大正12年免許)のみで、代燃車2台を所有し ていた。そのほかでは札幌市(昭和8年免許)だけ であったが開店休業状態となっていた。

戦後の復旧の機運は、進駐軍輸送から始まった。 昭和21年、陸運監理局長は「一般観光自動車の自由 な運行は時期尚早と考えられるが、進駐軍関係の輸 送は特定旅客自動車運送事業をして取り扱うこと」 との通牒を出している。23年に至り、ようやく進駐 軍のほか「外人観光客、冠婚葬祭用、学術研究団体 の研究用、重要産業の視察、同産業に従事する者の 必要な厚生保健用、学校の見学および必要な修学旅 行用」と緩和された。しかし、燃料については進駐 軍用以外はガソリンを認められなかったから、本格 的な再開は容易でなかった。

それでも昭和23年11月、札幌市が代燃車で貸切事 業を再開したのをきっかけに、翌年には道北乗合自 動車、北海道中央バスと免許申請が続き、翌24年秋 には14業者、車両54台を数えるようになっていた。

(事業者の概要は下表の通り)

一般貸切(大型)旅客自動車運送事業者概況(昭和25年5月1日)
業者名 免許年月日 事業区域 車両
札幌市 昭和8・1・30 札幌、小棒、岩見沢各市、石狩、後志、胆振、空知各支庁管内 6両
北海道中央バス 同 24・10・6 札幌、小棒各市、後志、石狩、空知各支庁管内 10両
定山渓鉄道 同 24・10・6 札幌、小棒各市、後志、石狩、空知各支庁管内 2両
三菱鉱業美唄鉄道 同 24・10・6 空知郡美唄町およびその隣接町村 2両
札幌自動車 同 24・12・27 石狩、空知各支庁管内 2両
函館市 同 24・10・6 函館市および渡島、桧山各支庁管内 2両
函館バス 同 24・10・6 函館市および渡島、桧山各支庁管内 6 両
相互自動車 同 24・10・29 函館市および渡島、桧山各支庁管内 1 両
道南乗合 同 24・10・6 室蘭、苫小牧、帯広、札幌、小棒、函館、夕張、岩見沢各市、胆振、日高、空知、石狩、渡島、桧山、十勝各支庁管内 6両
道北乗合 同 牡12・27 旭川市および上川、空知、留萌各支庁管内 3 両
近藤清一 大正12・6・5 旭川市、留萌市および上川、空知、留萌各支庁管内 4両
帯広乗合 昭和24・6・5 帯広市および十勝、網走、釧路国、上川、空知、石狩、胆振各支庁管内 3両
東邦交通 昭和24・10・6 釧路市および釧路国、根室支庁管内 4両
北見バス 昭和24・10・6 網走、十勝、釧路国、上川、根室各支庁管内 3両
合計14業者 54両
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駐留米軍輸送で活躍

 当時、駐留米軍輸送で大きな実績を上げたのは、 中央バスによる真駒内キャンプクロフォードへの特 定輸送であった。この基地には1万名にのぼる米軍 将兵とその家族がおり、多くの日本人従業員も働い ていたが、中央バスは昭和26年8月、それまで全国 的にこの事業を担当していた帝産オートから施設、 営業権を引き継ぎ、バス13両と従業員20名で、札幌 駅前の米軍鉄道輸送司令部(RTO)と真駒内基地 間に午前7時から午後11時まで15分間隔で往復運行 を開始した。この特定輸送は昭和29年、米軍の引き 揚げでその役割を終えたが、運賃も帝産オートから 引き継いで、市内線の3倍に当たる60円であったか ら、外出の多い土日には当時の金で1日3万円以上 の収入を上げ、同社に大きく寄与したといわれる

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レジャーブームで新規進出続々

その後、国民生活もようやく活気づき始めてきた 昭和33年4月28日、久しく途絶えていた貸切バスの 免許を道央自動車株式会社(代表者・真田正幸)が 取得して営業を始めた。さらに35年6月13日に銀嶺 バス株式会社(同・小林傭吉)36年5月15日には北 都バス株式会社(同・武田忠幸)等が相次いで免許 を得て運輸を開始し、いよいよ貸切バス事業への進 出の気運が高まってきた。

第一次石油ショックを乗り切った昭和50年代、日 本経済は高度成長過程に入り、国民生活にもゆとり と豊かさを求める余裕が生まれ、モータリゼーショ ンの進展によって庶民がマイカーを持つことは夢で ない時代となっていた。その一方で、レジャーブー ムの定着で団体旅行用の貸切バス需要が高まり、ハ イヤー、トラック、レンタカーを営む企業を中心に、 新規免許事業者が飛躍的に誕生した。年次ごとに見 ると、当初は大型車を主体とした事業計画であった が、やがて免許取得が容易な小型車、中型車を一定 の割合で保有することを義務付けた条件付限定免許 の申請が相次いだ。

さらに昭和62年から審査基準の改正で、限定免許 付き等の条件緩和で「小型限定」のみの申請が可能 となったことから、表向きは小口需要への対応とし て、もっぱらマイクロバス2~5両の事業計画を主 体とした免許が主流となった。

しかし、これらの「小型限定」は大型、中型のい わゆる一般免許へのステップともいわれ、数年にし て「小型限定」解除が常態化していった。しかもこ の時期からそのことが引き金になって、堰を切った ように新規免許事業者が加速度的に増加したが、そ れはまた供給過剰への序曲でもあった。

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供給過剰現象で預かり減車制度

バブルの絶頂期にはバス不足のうれしい悲鳴も聞 かれたが、それも平成4年度前後からバブルの崩壊 とともに、海外旅行の割安感、旅行形態の団体型か ら小グループ型への移行、価格破壊や、いわゆる 「安・近・短」への指向などの影響も受けて、常態 的な供給過剰現象が顕在化し、貸切バス事業の経営 は悪化の一途をたどり、凋落傾向さえ見せるに至っ た。

北海道運輸局はこの事態を憂慮して、平成6年7 月1日「一般貸切旅客自動車運送事業の期間限定減 車に関する取り扱いについて」いわゆる「預かり減 車」制度について通達した。これは北海道バス協会 の強い要請を受けて発せられたものであった。

その要旨は「経営面からみて現有の車両が当面不 要な場合であっても、事業計画の変更(減車)が積 極的に行われていない実態が見受けられ…」「この ような状態が長期化すると適正な事業運営の維持が 困難となり、公共輸送機関としての使命である良質 な輸送力の確保に支障をきたす…」「事業の効率的 運営が図られるよう期間限定減車について…方針を 定めた…」というもので、期間中であっても復元が 可能であり、期間満了後は減車前の車両数に復元す ることができる、というものであった。

収支改善の効果のほどは別として、毎年、会員認 可車両数約2200両の約6%前後にあたる130両前後 の「預かり減車」が実施されている。しかし、その 一方で新規免許事業者(そのほとんどが北海道バス 協会にとってアウトサイダーとなっている)の増加 はとどまるところを知らず、そのことが時流とはい え市場原理の導入、規制緩和を招く要因となったこ とは否めない事実であろう。

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