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第8章 雪と闘い道切り拓く

目次

永かったデカンショ営業

時代が移り、法制が変わり、国民生活が上向いても、変わらぬものは気象であり、道民の暮らしに重くのしかかっていたのは、冬の寒さに加えて、雪の多いことであった。雪は暗い宿命のように、半年にわたって道民の生産活動と消費生活のすべてを閉ざした。とくに自動車運送事業にとっては、悪路と、市街地・集落が小規模で分散していることに加え、道央、道北の多雪地帯では毎年11月から翌年3、4 月まで運転の休止を余儀なくされるため、経営が安定しないことは当然であった。

道路の完備された今日では想像できないことだが、雪による半年の道路閉鎖に加えて、晩秋の降雪期と春の融雪期には多くの道路が泥濘と化して自動車の運行を困難にし、車体、エンジン、タイヤなどをいちじるしく損耗し、燃料の消費を増加させた。冬期間は自動車を車庫に納めて整備し、従業員は一時待機するか、減給して他の職場に移すなど、いわば冬眠状態を余儀なくされたため、バス事業についてデカンショ営業という言葉が、永く自嘲的に語られてきたのであった。

昭和12年発行の「十勝自動車合資会社沿革と業績の概要」は「路線業者最大の痛手の一例を挙げて今後も各位の御支援と当局の御理解ある道路施設に就いて御支援を仰ぎたいと存じます」と前置きして、積雪対策を次のように強く訴えている。

「それは冬期の積雪期と春期の融雪期の道路の閉塞による自動車交通の途絶することで、降雪一夜累積数尺、万目ただ皚々、斯くの如く冬期前後を通じて半年に亙る交通途絶期間内は我ら路線業者は完全に徒食して春暖を待つ事を御想起下さい。しかして待望の春来りて雪は消え解氷期に至れば、砂利道と言わず道路という道路はことごとく土道のヌカルミ、真に馬背を没する時を御想像下さい。この融雪、解氷期はさすがに馬橇の交通も絶えて、悪路を冒して乗合自動車の乗客が鋤鍬を積んで途中陥没するバスを従業員、乗務員、乗客が三位一体となって協力して掘り出しつつ泥土にまみれて行進する状況を御想像下さい。そのいずれも業者の痛嘆と業界の進歩の大阻害たらざるを得ないと深く考える次第であります。重ねて御理解ある当局の道路施設に御支援を仰ぐものであります」

半年の間仕事を奪われたのは交通事業関係者だけではなかった。孤島となった多雪地帯の住民の暮らしは不活発で陰気なものとなり、時には生命と健康維持に支障が続出した。輸送の道が断たれるため、生産は停滞した。もし冬も車が動いたなら-というのは、遠くかなわぬ夢と思えた。

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自主除雪のはじまり

デカンショ営業から抜け出し、冬も交通を確保しようとの努力は、さまざまなところで始められていた。統合前の小樽市街自動車は米国製のフォードソントラクターで円筒形のローラー(鉄板製で、中にコンクリートを詰めて重くした)を牽引し、道路の雪を填圧(てんあつ)して市内線のバスを通したという。このトラクターには前部にV字形の排雪板も取り付けてあったが、深い雪の中ではほとんど用をなさなかったという。釧路自動車株式会社もまた昭和8年にフォードンソントラクターを導入している。専用の強力な除雪、排雪機材は存在しなかった。

小樽市内では統合後しばらくの間、人力で除雪や雪割りをしたり、雪の降る夜は夜通し空車のバスを除雪車代わりに走らせて雪を踏み固めて、日中のバスの運行を確保し、また札幌や滝川では3月に入ってから人力や機械で主要路線の雪を割り、バスの運行再開時期を早めていたが、とても本格的な除雪といえるものではなかったという。

道路除雪については、多雪地帯の都市・集落をエリアに持つ北海道中央バスが多くの経験を重ねて、同社五十年史でくわしくその苦心談を伝えている。貴重な記録を引用させてもらおう。

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「戦後、米進駐軍が札幌一千歳空港間や札幌市内の丘珠空港に通ずる道路、石狩街道などを除雪していたので、これらの道路はバスも走れる状態になっていたが、乗降客の多い豊平一月寒間は労務者を雇って人力で除雪し、なんとかバスの運行を確保していた。昭和22年ごろ、当時、札幌土木現業所の責任者だった堂垣内尚弘氏(注・のちの北海道知事)から、当社札幌支社の加藤信吉営業課長(注・のちの社長)のもとに『月寒周辺は人口が増加しており、人手で雪はねしても追いつかないから機械を使って会社自体で除雪してはどうか』という電話があり、当社はこの提案を受け入れて、さっそく札幌土木現業所から、丘珠空港で使っていた旧陸軍の飛行場用除雪車(K号除雪機)3台を無償で借り受け、豊平一月寒間の除雪に大きな成果を上げた。これが当社の本格的な『自主除雪』の始まりである。堂垣内氏はのちに道路関係の業界紙に『札幌土木現業所が所管していた旧軍の飛行場用除雪車を試験的に貸与し、これが大きな成果を上げた。今でも加藤氏に会うと、あのときのことを喜んで話し合っている』と記し、K 号除雪機貸与の経緯について触れている。札幌市内はこのように自主除雪によって主要路線の運行だけはなんとか確保していたが、ローカル路線は手の施しようがなく、冬の間、運行をやめて冬眠という状態だった」

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道路運送冬期対策協議会の結成

昭和25年7月に就任した武田利雄札幌陸運局長は札幌出身で、かねてから北海道開発の推進には冬期間の道路交通確保が絶対必要という持論を唱えていたが、就任間もなく伊藤琢磨北海道旅客輸送協会会長らを招いて協議し、冬期運行を確保するためバス路線の除雪を推進することで意見が一致した。そして同年9月28日、道土木部をはじめ、関係市町村、業者団体を網羅した『北海道道路運送冬期対策協議会』を結成して149路線、延長2,633kmの除雪計画路線を決め、各関係団体や市町村が除雪機材や除雪に要する経費を分担して、12月から画期的な冬期除雪を開始した。

この北海道道路運送冬期対策協議会を構成したのは、道土木部、札幌管区経済局、国警札幌管区本部、札幌通商産業局、札幌郵政局、札幌営林局、国鉄自動車など、広範なものであった。こうして札幌では官庁は陸運局が中心となり、また自動車関係団体は北海道旅客輸送協会が中心となって道土木部と連絡し、地方では陸運事務所とバス業者が土木現業所と連携して、主要バス路線の除雪が始まった。この作業の主体は土木現業所だが、機械カや予算に乏しいため、バス業者と市町村が協力して公有、民有のブルドーザー、モーターグレーダー、農耕用けん引車、トラックなどを総動員したものであった。

この取り組みの結果、昭和5年度は除雪計画路線延長2,633kmに対し、運行確保路線延長は3,237kmに達し、23%も上回るという好成績を収めた。前年の24 年度の冬期運行路線の延長1,352kmに比べて倍増どころか2・4倍の増加であった。官民の関係者が連携作業に自信を深め、利用者が長い冬のとばりを破ってやってきたバスを大歓迎したことは当然であった。この昭和25年から26年にかけての冬は、北海道のバス運行にとって画期的な、官民協力による除雪運行元年となった。

この除雪運行の推進役は札幌陸運局であったが、当時担当した梅木通徳旅客課長はのちに編集に当たつた「伊藤琢磨の追憶」の中で、バス業界の協力ぶりについて次のように高く評価している。

「最も協力したのは伊藤琢磨を会長とする北海道旅客輸送協会の会員で、とくに北海道中央バスの加藤幸吉専務、函館バスの池田栄蔵専務、道南バスの山内多市専務、道北乗合自動車の金森勝二社長、帯広乗合自動車の野村勝次郎専務、東邦交通の森口二郎取締役、北見バスの牧野吉六専務らは、それぞれの地方の中心となって、物心両面の労苦をいとわず尽力し、バスの通行確保に情熱を燃やしたものである。こうしたバス業界が中心となって推進をはかった道路除雪運動は、道民から高く評価されて、爾来毎年積極的に実施されるようになった」。

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戦車を改造して除雪車に

実際の除雪の苦心についても、中央バス五十年史は次のようにいきいきと伝えている。

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「当社は、この冬期除雪計画に基づいて、旧陸軍払い下げの九五式軽戦車、九七式中戦車、一式重戦車や古トラック、米軍払い下げのアンヒビアンバスなどを除雪車に改造し、自主的に主要路線の除雪にカを入れた。昭和25年度の当社の除雪実施状況をみると、小樽市内、余市、岩内、寿都、札幌市内、石狩、長沼、岩見沢、美唄、滝川、芦別地区で一斉に除雪を開始、これには各地の土木現業所も除雪機材を提供し、応援協力してくれた。

除雪で苦労したのは、多雪地帯の空知地方である。滝川地方営業部は昭和25年冬から逐次、芦別線、旭川線、滝川一砂川一歌志内一赤平線、芦別一神居古潭線、滝川一浜益線などの除雪に乗り出し、バスの運行を確保した。当時は性能のよい除雪車はなく、古戦車や古トラックを改造してV羽根(排雪板)を取り付けた、にわか仕立ての除雪車ばかりで故障も多く、日中フル稼働して夜は故障の修理、そして夜が明けるとまたフル稼働という悪戦苦闘の連続。しかし従業員たちは決して弱音をあげず、行く先々で沿道の農家に泊めてもらいながら、つらく厳しい作業に取り組み、ここ一番というときには文字通り不眠不休で頑張った。」

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春を運んだニシン輸送

「とりわけ苦労したのは、当時滝川地方営業部のドル箱路線だった浜益線65キロの除雪。何しろ雪が消えて車が走れるようになるのは5月中旬という雪の難所である。当時は浜益村でニシンが盛んに獲れていたが、車が通れないため新鮮なニシンを陸路輸送することができない。そこで滝川地方営業部は土木現業所、関係町村、漁協、運送業者と協力して滝川浜益間除雪対策委員会を組織し、昭和26年3月末から除雪に着手した。しかし樺戸と浜益の郡境にある青山トンネル付近は、標高の高い峠道のため、下界ではそろそろ田植えが始まるというのに、まだ3 メートル近い雪の壁が両側に立ちはだかっているありさま。何カ所もある木橋も狭く、朽ちかけているため、重量のある除雪車はそのままでは通ることができず、橋の両側を太い丸太で支えて橋を補強しながらソロソロ渡るといった状態で、一日に数メートルしか進めないこともあった。やがてこの除雪作業に、当時札幌の三菱手稲鉱にあった総重量20トン、 150馬力という、わが国に一台しかない高性能の大型除雪車が加わり、作業能率がグンと向上した。

札幌では石狩一花畔間6キロの除雪に手を焼いていた。この道路は路面よりも路肩のほうが高く、石狩港から襲ってくる雪や地吹雪のため、いくら除雪してもすぐ埋まってしまう。そこで札幌地方営業部では、札幌市や石狩町と協力して春先の雪割りにカを入れ、バスの運行を確保したが、この道路は、札幌市民に新鮮な春ニシンを供給するのにも大きな役割を果たした。」

除雪運行は、雪に閉ざされていた利用者に足の便を贈っただけでなく、生産地と消費地を結び、双方に大きな恩恵と活気を運んだことが目に見えるようである。

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輸送人員は5年で4倍

バス業界念願の冬期運行は道民から喜びをもって迎えられ、毎年その除雪路線は延びていった。その実績は数字からも明らかで、冬期間(12月から翌年 3月まで)の輸送人員は、実施5年後には実施前年の4倍近くに達している。半年は冬ごもりとあきらめきっていた人々が、都会へ故郷へと明るい表情で繰り出す様子が見えるようではないか。

年度 除雪路線延長(km) 割合 走行(千km) 割合 輸送人員(千人) 割合
昭和24 1,351.5 100 2,557 100 10,749 100
昭和25 3,237.2 240 4,332 169 17,583 164
昭和26 3,389.2 251 5,676 222 21,266 198
昭和27 3,312.0 245 6,610 259 26,524 247
昭和28 3,557.0 263 8,024 314 36,770 305
昭和29 4,476.1 321 9,430 369 41,896 390

これを除雪経費(単位・千円)から見た統計もあり、年々、路線の延長に伴い、当然ながら経費も増大してゆく実情がわかる。(道開発局は昭和26年度に発足)

年度 開発局 道土木部 バス業界 合計
昭和25 -  17,267 17,181 34,448
昭和26 5,774 12,224 24,600 42,598
昭和27 13,708 12,240 23,814 49,762
昭和28 25,933 12,240 33,626 71,799
昭和29 32, 000 22,522 24,703 79,225

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当時のバス運賃は昭和25年7月に雪国地割増として、北海道2割(青森、秋田など1割5分)が認められていたが、これは除雪費用に対するものではなく、積雪地帯の運転費用増に見合うものであった。このため北海道旅客輸送協会は昭和24年度の実績をもとに陳情を重ねた。この基礎となった数字は、人件費、燃料費などから、積雪期には除雪車の運行によって通常の1.7倍の経費がかかるという実態を明らかにしたものであった。再三の陳情はようやく功を奏して、同年12月、さらに除雪費割増として5割以内の増が認可された。しかし、路線によってはそれでも除雪費用をまかなえず、受益者負担として夏期の倍額近い運賃となったところもあった。国と道の予算もこのままでは多くの伸びが期待できず、抜本的な対策が求められる時期に至っていた。


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積雪寒冷地特別法の促進へ

昭和26年にまとめられた北海道拓殖銀行調査部「北海道における民営バス事業に関する調査」の除雪問題の章に、次のような記述がある。

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「除雪問題は本道の冬期道路運送問題として、単にバス事業のみならずすべての道路運送事業者にとって極めて緊要なものであり、その成否如何は、北海道開発の死命を制すると言っても決して過言でない」と説き起こし、「すなわち除雪に努力すれば冬季においても旅客は非常に増加することが明瞭である」として「除雪費の捻出は何人がこれを行うべきか。除雪費用は、法律的に言っても常識的に見ても、当然道路管理者である国・道・市町村等が負担すべきものであるが、目下の財政状態では到底充分の予算を望むことができないから、勢い道路運送業者等の除雪による受益者がこれに協力して相当の金員を支出しなければならない実状にある。昭和25年度においては、国費による除雪予算は獲得できなかったが、道費において12月440万円、3月に80万円、計520万円が支出されている」と種々分析ののち「国・道・市町村も冬季道路運送には大なる関心を持っているから、近い将来、本道において自動車の除雪運行は極めて普遍的なこととなり、深雪を冒し、各種の自動車が北海道を縦横に疾走することになるのは火を見るよりも明らかである」との展望で結んでいるのは、当時のバス業界の期待をも代弁するものであったろう。

昭和26年に新しい名称でスタートした「北海道バス協会」の大きな課題も冬期除雪問題であった。伊藤琢磨会長ら役員は札幌陸運局の石塚久司局長に陳情を重ねていたが、昭和29年、ようやく機運は熟した。

石塚局長はこの問題を北海道総合開発委員会に提案し、同委員会はこれを受けて7月から「北海道冬季道路確保に関する調査報告書」の取りまとめにかかり、10月、「冬期道路交通確保対策に関する建言」書を作成して関係省庁あてに提出した。除雪運営体制の強化をはかるため、政府が予算措置を講ずるようとの画期的な建言であった。

また北海道バス協会は、一方で道には道費による除雪費の負担増を陳情していた。道は東北六県とも連携して、国費をもって道路の除雪・防雪、除雪車・雪上車の整備、凍雪害防止などの対策を講ずる「積雪寒冷地における冬期交通確保に関する特別措置法」の特別立法の促進に乗り出した。

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先覚者の熱意と努力実る

待望のこの法律が成立したのは昭和31年4月であった。この年から主要道路の除雪はほぼ全面的に道路管理者である国や道、地方自治体の責任と負担において実施されることになった。完全に実施されるまでにはその後もかなりの年月を要したが、バス事業者はようやく長く苦しい雪との闘いから解放されたのであった。

この積雪寒冷地冬期交通特別措置法の制定は、実現をめざして運動を展開した先覚者の熱意と努力に負うところが大きい。当時の道バス協会伊藤会長、中央バス加藤幸吉専務は何度も上京して中央に陳情し、時には除雪のPR映画を製作して持ち込み、国の予算による除雪の必要性を熱心に訴えた。加藤専務はその功績によって昭和34年11月に運輸大臣から交通文化章を受章している。 また昭和35年2月、道と北海道道路利用者会議共催で開かれた北海道冬期道路交通確保10周年記念式で、伊藤琢磨、元札幌陸運局長武田利雄、元同旅客課長梅木通徳の3名にはその功績を讃えて感謝状が贈られた。

雪が閉ざしていたのは北海道の道路だけでなく、生活であり、生産であり、文化・情報、そして人と人とのつながりであった。そのことにいち早く気づいて、第二の開拓ともいうべき道路除雪を推進し、雪原に道を切り拓いた先駆者の功績はけっして忘れられてはならないだろう。

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