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第7章 民主憲法下の法制変化

目次

民主化へ法規の整備進

日本国憲法が公布されたのは終戦の翌年、昭和21 年の11月であった。翌22年にも占領軍の民主化要求にそって、教育基本法、労働基準法、地方自治法など、さまざまな新しい法律が公布された。道路運送法もそのひとつであった。

自動車旅客輸送事業の再建は、戦後の混乱を乗り越えながら着実に進んでいたが、これを監督する法規は旧態依然の自動車交通事業法などであった。22 年12月、道路運送の総合体系法規として成立、公布された道路運送法が従来の交通事業法と大きく異なるのは、次のようにさまざまな民主化方策が盛り込まれたことであった。

道路運送行政の民主化

(1)道路運送委員会の制度を設けたこと。

(2)免許の基準を設ける根拠をこの法律においたこと。

(3)地方公共団体の区域内のバス事業に関しては、市長の意見を尊重することとしたこと。

道路運送事業の民主化

(1)統制組合であった自動車運送事業組合および同連合会を解散したこと。

(2)運送約款を設けて運送契約を定型化し、運送責任を明確にしたこと。

(3)公共の福祉を確保するため、これに反する行為を禁止し、あわせて不当競争をも防止すること。

(4)事業の公共性に鑑み、業者に運送引き受けの義務を課する等、公共事業としての義務を網羅したこと。

輸送秩序の確立

(1)自家用自動車の適正使用を図ったこと。

(2)自動車運送事業の種類を改め、一般事業と特定事業に大別して、運送責任分野を確定したこと。

車両検査等その整備義務を規定したこと。

軽車両運送事業を包括規定したこと。

道路運送行政機構を確立したこと。運輸省の直轄地方行政官庁としての道路運送監理事務所を設けたこと。

この道路運送法は占領下の制定とあって、公正競争の確保、道路運送委員会の設置など、米軍の指導によると見られる規定と、従来の一路線一営業主義との関連で不安の念をもって迎えられた(その後、昭和26年に全面改正されることになる)。

また、これによって戦時下の統制組合とされたこれまでの自動車運送事業組合は、新しい組織への脱皮が迫られた。

「全国乗合旅客自動車運送事業組合連合会(全乗旅連)」はバス事業者とタクシー、ハイヤー事業者で組織する自動車運送事業組合が、昭和19年に運輸通信省の指示によって一本化されて誕生した組織であったが、十分な準備の余裕もないままに解散し、22 年12月、「日本自動車協会」を設立した。会長は大山秀雄であった。

(翌23年4月に至り、社団法人に組織を変更してようやくその体制を固めた。この時の理事には北海道から金森勝二、杉江仙次郎が選任されている。さらにその後、23年8月、ハイヤー部門を除くことを決め、社団法人「日本乗合自動車協会(日乗協)」に改組した)。

北海道の場合も同様、新団体への再編成が急務であった。

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道旅客輸送協会の結成

北海道乗合旅客自動車運送事業組合は昭和22年の暮れも押し詰まった12月18日、臨時総会を開いて解散を決めた。そして、これまでの組合に代わる事業者団体として、会員の親睦任意団体「北海道旅客輸送協会」の設立を申し合わせた。この創立総会は翌年1月12日に開かれ、新役員は次のように選ばれた。いわば戦後新体制の第1期執行部であった。

理事長伊藤琢磨、理事加藤幸吉(札幌)同稲川広光(函館)同田中国三郎(室蘭)同金森勝二(旭川)同多田倍三(北見)同今泉貞一(釧路)同伏木田隆作(札幌)同柴野安三郎(札幌)同下山三郎(函館)同阿部勇太郎(帯広)監事九里正藏(札幌)同中田竹次郎(帯広)同馬場英保(旭川)

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道路運送行政の大幅な転換

昭和23年1月施行の道路運送法により、道路運送監理事務所は各都道府県に設けられたが、とくに北海道は札幌、函館、室蘭、帯広、釧路、北見、旭川の7箇所に置かれ、うち札幌は東京、大阪など鉄道局所在地9箇所とともに特定道路運送監理事務所として広域行政を担当することになった。

また道路運送委員会は、中央では運輸大臣の諮問機関とし、地方では特定道路運送監理事務所長の諮問機関として設置された。初の北海道地方道路運送委員会には伊藤琢磨(バス業界)平賀松治(ハイヤー業界)ら関連業界代表ら7名が任命されている。この委員は運輸大臣の任命で一切の兼務が認められなかったので、協会理事長であった伊藤琢磨は委員就任の2月23日付けで理事長を辞任している。

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国鉄分離、新運輸省がスタート

政治も経済もなお戦後の混乱を脱せず、行政組織の改革もしきりであった。昭和24年6月1日には国鉄が日本国有鉄道として分離、新しく運輸省が発足した。逓信省は電気通信省と郵政省とに分離、地方自治庁、国税庁の新発足も同時であった。

新しい運輸省の機構として、これまでの陸運監理局が鉄道監督局と自動車局に分離し、地方機構として陸運局が設けられ、札幌の特定道監は札幌陸運局と変わった。同時に道路運送法も改正され、7月31 日限りですべて道路運送監理事務所は廃止され、これまでの事務は都道府県知事に委譲されることになったが、業界側には接点がなくなるとの懸念があり、各自動車協会などに反対の動きがあった。このため運輸省は陸運局所在地を除き各府県に1、北海道に 6の陸運局分室を知事直属の独立機関として設置、これが後の陸運事務所となった。また、北海道地方道路運送委員会も同審議会に改められた。

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ハイヤーと別れ道バス協会誕生

北海道旅客輸送協会の会員数は昭和25年1月現在でバス業者20、ハイヤー業者22に達していた。すでに車両、燃料などの入手は大きく改善され、ハイヤー業界の復興は著しいものがあったから、ハイヤー部会には独立を図る動きがあり、3月20日、「北海道乗用自動車協会」を設立して事務局を分離した。

北海道旅客輸送協会は4月11日の定時総会でその独立を認め、ハイヤー部会関係役員の辞任を承認した。戦時下の統合方針により一本化されたのが昭和 18年12月であったから、"強制同居期間"は6年余、それぞれの分離独立は新しい時代へ歩み出す当然の動きであった。

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翌26年5月10日に開かれた社団法人「北海道旅客輸送協会」の定時総会は定款の変更を行い、法人の名称を時代に即応させて、一目瞭然で明快な「北海道バス協会」と改め、名実ともに新しいスタートを切った。中央の日本乗合自動車協会が日本バス協会と改称するのは、かなり遅れて昭和44年のことである。

北海道バス協会は新しい発足と同時に、理事長制に変えて会長制を採用し、初代会長には前理事長の伊藤琢磨が就任した。初代バス協会の理事、顧問は次のとおりであった。

理事加藤幸吉(札幌)同稲川広光(函館)同徳中祐満(室蘭)同金森勝二(旭川)同伊藤鉄次郎(釧路)同多田倍三(北見)九里正藏(札幌)同高野敬孝(寿都)顧問杉江仙次郎(小樽)同黒田岩吉(旭川)同近藤清一(旭川)

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道路運送法の全面改正

昭和22年、占領軍の民主化政策を背景に成立した道路運送法は、その後、バス業界はもとよりハイヤー、トラックなど自動車業界のめざましい発展にそぐわない点が出てきていたので、26年6月、全面的に改正され、新たに道路運送車両法も制定された。改正の主な骨子は次のようなものであった。

  • 運送事業の種類を実態に合わせて、旅客、貨物とも自動車の大きさによる分類を併用し、4種類から6種類に。
  • 各種の免許、許可、認可基準を法律で明らかに、とくに免許基準は法律に定めて行政の民主化を図った。
  • 運賃、料金は不当競争防止のため一定額をもって明確に定めることとした。
  • 高速度交通の保安のため、検査、管理等の制度を整備した。
  • 輸送秩序維持のため自家用自動車の営業類似行為を取り締まる。
  • 道路運送審議会制度を適正化し、定数、任命方法などを修正した。
  • 道路運送車両法で登録制度、検査制度を整備充実し、自動車整備事業を認証して保安を強化する。

ここからバス運賃の定額制への移行が決められたが、インフレと公共料金抑制方針の下、本道のバス業者の経営はなお不安を残した。

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